町でこの半年あまり毎日のように彼女の白い脛を追い廻している僕に気がついていないのであろうかどうかを何時までも気にしていた。
 翌日から僕は新しい希望と新しい焦燥《しょうそう》とを持って、自分の研究室へつめかけた。だが、落付いた気持で研究室に坐っていることは出来なかった。幸い、早く研究題目を所長の芳川博士へ報告する必要があったので、その調査に名を借りて、しばしば図書室へ通った。その室《へや》には廊下から入れる戸口があったにも拘《かかわ》らず、知らぬ顔をして研究事務室の扉《ドア》を先ず押して入り、それから又も一つの扉を押して隣りの図書室へ入った。事務室の扉を開くと、佐和山女史はピリッとも身体を動かさなかったが、京町ミチ子だけはハッとしたように、私の方へ顔をあげ、それからニッコリと笑ってみせるのであった。そのたびに私は身体を硬くして、強《し》いて笑顔を作るのに骨を折った。
 図書室へ入った僕は、大抵《たいてい》、螺旋階段をのぼりきって、三階の書棚の前に立ち、並んでいる雑誌の表題や年号を幾度となくよみかえしたり、その書棚の或る一つに雑然と積みかさねられてある雑部門の珍書などを手にとってみていた。最初の考えでは、何時《いつ》かも見たように、此の三階へまたミチ子がやって来るかも知れない。すると土蔵《どぞう》の屋根うらのように薄暗くて階段の外《ほか》には出口すらもないこの室のことだから、案外彼女と静かに話でも出来るのではないかと思った。だがミチ子は遂《つい》に一度もこなかった。しかし僕は相変らずこの三階にのぼることを止《や》めなかった、というのはこの黴《かび》くさい陰気な室が大変気に入ってしまったからである。なんとなく秘密でも隠されているような魅惑《みわく》が感ぜられた。そうこうする内に、とんでもない事件が図書室の中に起って、僕はこの三階に居たため恐ろしい嫌疑《けんぎ》を蒙《こうむ》らねばならないようなことが出来てしまった。
 僕が国研へ入って十日程経った或る日の午後のことであった。例によって僕は事務室をのぞき、ミチ子だけが机の前に坐って手紙らしいものを書いているのを認めた上、図書室の扉《ドア》を押して入ったが其所《そこ》には誰も居なかった。廊下へ通ずる扉が半開きになっているのが鳥渡《ちょっと》気になった。僕はそのまま螺旋階段を二階へ上って行くと、其所《そこ》にはいつものように四宮理学士の坐る読書机の上に、なんだか厚い原書が開かれてあり、当の四宮理学士の姿は見えなかったが、僕が三階への階段へ一歩足をかけたとき、階段の直ぐ背後に御当人《ごとうにん》がうずくまった儘《まま》、何か探しものでもしているような姿を認めた。僕は別に声もかけず三階へのぼって行き例のとおり雑部門の珍籍の一つである十九世紀の犯罪科学に関する英国スコットランド・ヤードの報告をひっぱりだして読みはじめた。
 何十分経ったかは知らない。なんだか二階で人の呻吟《うめ》くような声をきいたと思った。するとトントンと二階から一階へ降りて行く人の跫音《あしおと》がかすかに聴えてきた。やがてガチャンと言う硝子扉《ガラスど》にうち当ったような音がきこえてきたが、そのままひっそりとしてしまった。二階の四宮理学士のしわぶきも聴えて来ない。どうしたものか鳥渡《ちょっと》気になったので手にしていた本を抛《ほう》りだすと、螺旋階段をすかして二階なり一階なりをすかしてみたが狭い視野のこととて別に異状も見当らない。唯《ただ》、あまり僕の立っているところが高いので三階から下まで急転落下《きゅうてんらっか》しそうな脅迫観念《きょうはくかんねん》に捉《とら》われたので、首を引っこめると、念のために二階へ降りてみた。一見《いっけん》異状はないようであったが、階段のうしろに当る狭い書棚の間から、リノリュームの上に長々と横《よこた》わっている二本の男の脚を発見したときには、
「やっぱり、先刻《さっき》やられたんだな」
 と思った。恐《こ》わ恐《ご》わその方に近よってみると、これはたいへん、倒れているのは所長の芳川博士であったではないか。僕は大声をあげて博士を抱き起してみたのであるが、博士の身体はグッタリと前にのめるばかりで、もう脈搏《みゃくはく》も感じなかった。どうしたのかと仔細《しさい》に博士の身体を見れば、ネクタイが跳ねあがったようにソフトカラーから飛びだして頸部《けいぶ》にいたいたしく喰い入っている。それは明らかにネクタイによる絞殺《こうさつ》であることがうなずかれた。
 声に応じて事務室からとび上って来たのが佐和山女史だった。やがて別の入口をとおって四宮理学士が駈けあがって来た。其他《そのた》の所員たちも多勢駈けつけたが、ミチ子ばかりはどうしたものか却々《なかなか》影をみせなかった。


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 博
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