立番はその日から向う一週間に亘って続けられるというのだから、鳥渡《ちょっと》想像してみただけでも心臓が締めつけられるような苦しさに襲われるのであった。
それは夏も過ぎ、涼しい風が爽《さわや》かに膚《はだ》を撫《な》でて行く初秋の午後であった。僕は肩から胸へ釣った記録板《きろくばん》と、両端《りょうたん》をけずった数本の鉛筆とを武器として学究者らしい威厳《いげん》を失わないように心懸けつつ、とうとう「信濃町」駅のプラットホームへ進出した。友江田先生の命ずるところに随《したが》い、僕はあの幅の広い、見上げるほど高い鼠色の階段の下に立った。そして乗降の客たちの邪魔にならぬ様《よう》、すこし階段の下に沿って奥へ引《ひっ》こむことにした。其処《そこ》は三角定規の斜辺についてすこし昇ったようなところで、僕の眼の高さと同じ位のところに、下から数えて五六段目の階段が横からすいてみえているのであった。そこに立ち階段を横からすかしてみれば、この階段を上って出口へ行く乗客の男女別はその下半身《しもはんしん》から容易に解ったし、観察者たる僕は身体を動かす必要もなく唯《ただ》鼻の先にあとからあとへと現われて来る乗客の下半身を一つ二つと数えればよいのであった。いよいよ時間がきたので、反対側に居る先生が、それッと合図をした。僕は緊張に顔を赧《あか》くしてそれに答えると、その瞬間、鼻先に幼稚園がえりらしい女の子の赤い靴が小さい音をたてて時計の振子のように揺《ゆ》らいで行ったのを「一ツ」と数えて「幼年女生徒」の欄へ棒を一本横にひっぱった。それに続いて黒いストッキングに踵《かかと》のすこし高い靴をはいた女学生の三人連れが、僕の鼻の前を掠《かす》めて行ったが、その三人目の女学生がどういう心算《つもり》だか急に駈け上ったので、パッと埃《ほこり》がたって僕の眼の中へとびこんで来た。僕はもうこの非衛生な仕事がいやになった。
併《しか》し、この仕事をはじめてから三十分も経つうちに不思議な興味が僕に乗移った。駅の階段を上って行く婦人の脚は、だんだんと増えて行った。黒いストッキングが少くなり、カシミヤやセルの袴《はかま》の下から肉づきのよい二三寸の脛《はぎ》をのぞかせて行く職業婦人が多くなった。
その途端に、金魚のように紅と白との尾鰭《おひれ》を動かした幻影が鼻の先を通りすぎるのが感ぜられた。僕は「袴の無い若い職業婦人」の欄《らん》へ、一本のブルブル震《ふる》えた棒を横にひいた。それは脚だけの生きものでしかなかった。脚だけの生きものが、きゅっと締《しま》った白い足袋をはき、赤鼻緒《あかはなお》のすがった軽い桐《きり》の日和下駄《ひよりげた》をつっかけている。その生きものを見ていると身体がフラフラする。身体が言うことをきかなくなる。まだ時間が切れないのかな、と思った。
すると今度は階段の下からまた一人、僕としては最も正視《せいし》するに耐えない「袴の無い若い職業婦人」が現われた。その欄《らん》へ一本のブルブル震えた棒を横にひくと、恐《こわ》いもの見たさに似た気持で、その白い脛《はぎ》をのぞきこんだ。僕はあんなに魅力のある脛をみたことがない。実にすんなりと伸びた脛だった。ふくら脛はむちむちと張りきり、乳房のように揺《ゆら》いでいた。向う脛の尖《とが》ったふちなどは想像もできないほどまんまるく肉がついていた。その色は牛乳を凍《こお》らしてみたほどの密度のある白さだった。そのきめの細《こまか》い皮膚は、魚のようにねっとりとした艶《つや》とピチピチした触感《しょっかん》とを持っていた。その白い脛が階段の一つをのぼる度毎《たびごと》に、緋色《ひいろ》の長い蹴出《けだ》しが、遣瀬《やるせ》なく搦《から》みつくのであった。歌麿《うたまろ》からずっと後になって江戸浮世絵の最も官能的描写に成功したあの一勇斎國芳《いちゆうさいくによし》の画いたアブナ絵が眼の前に生命を持って出現したかのような情景だった。その白い脛が階段を四五段のぼると、どうしたものか丁度《ちょうど》僕の鼻の先一尺というところで突然、のぼりかけたままピタリと階段の上に停ってしまったものだから僕は呼吸《いき》のつまるほど驚いた。僕の五感は針のように鋭敏になって一瞬のうちにありとあらゆるところを吸取紙《すいとりがみ》のように吸いとってしまった。
ふくら脛のすこし上のところに、まだ一度も陽の光に当ったことがないようなむっつり白い肉塊《にくかい》があって、象牙《ぞうげ》に彫《ほ》りきざんだような可愛い筋が二三本|匍《は》っていた。だがその上を一寸ばかりあがった膝頭《ひざがしら》の裏側をすこし内股の方へ廻ったと思われるところに、紫とも藍《あい》ともつかない記号のようなものがチラリと見えたのは何であろう。見極《みきわ》めようとした途端
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