日僕は研究所内が最もだれきった空気になる午後三時を見計《みはから》ってソッと三階へ上った。兼《か》ねて目星《めぼし》をつけて置いた例の本を抜きとると上から三段目の階段へ載《の》せた。何くわぬ顔をして下へ降りて来ると、誰も居ないと思った二階に四宮理学士が突立《つった》っていたので、僕はギクッとした。
「古屋君、君はあの事件で僕を疑っているようだったが、君もあまり立ち入った行動を慎《つつし》んだがいいですよ」と彼はいつになくニヤニヤと笑ってみせた。
「貴方《あなた》こそいつも此の室でなにをして居られるのですか」と僕はつい逆腹《むかっぱら》を立てて言いかえしたが、後《あと》で直ぐ後悔した。
「君には言ってもいいんだが、曲馬団《きょくばだん》の娘なぞと親しくしているようだからうっかりしたことはまだ言えない」
「曲馬団の娘?」僕はなんのことだったかわからなかった。
「曲馬団の娘って誰のことです。言ってください」
「まアいい。君が冷静であるなら言ってもよいのだが、実は古屋君。所長を殺した犯人はもう解っているのだよ」
「えッ、それは本当ですか?」と僕は思わず四宮理学士につめよった。
「ウン、それが困った人なんだ、実に気の毒でね、だが今夜僕は一切を検事に報告することにしてある。それまでは言えない」
「どうして貴方《あなた》は、それを探偵されたのです?」
「探偵?」四宮理学士は冷笑した。「探偵するつもりじゃなかったが、あの人殺しの運の尽《つ》きさ。実は僕が此《こ》の室でやっている実験の中《うち》に、犯人の奴がハッキリと足跡《そくせき》を残して行ったのだよ」
「足跡!」僕はいましがた階段に仕掛けて置いたカラクリのことを思ってギクリとした。四宮理学士は僕を嘲弄《ちょうろう》する気だろうか?
「こっちへ来給え」彼は案外平然として僕を階段のうしろへ導いた。いよいよ例のあやしい個所《かしょ》の秘密が曝露《ばくろ》するのだ。彼は階段のうしろへ跼《しゃが》むとリノリュームをいきなりめくってその下から二本の細い電線をつまみ出した。その電線は床を匍って一階へ下りる階段の方へ続いていたが、電線をヒョイヒョイとひっぱるとその先のところに小さい釦《ボタン》のようなものが電線と同じようにヒョイヒョイと動くのであった。
「あれは何です?」僕は恐怖にうたれて叫んだ。
「あれは顕微音器《けんびおんき》さ。小さな音を電流の形にかえるマイクロフォンさ。あれは階段についていて、階段を人間がのぼるとその振動が伝わって僕の室に在るフィルムへ、電流の波形がうつるのだ。僕は半年も前から、所長だけの了解を得て、『跫音《あしおと》に現われる人間の個性』という研究をすすめていたのだ。凡《およ》そ人間の跫音は皆ちがっている。そしてその波形には、その人が決して表面に出さない性質までがありありと映《うつ》ることを発見したのだ。実は跫音と人間の性質の研究は僕の独創ではなく、第十九世紀に英国のアイルランドに住んでいたマリー・ケンシントンという敏感な婦人が驚くべき特殊能力を発揮した詳しい実験報告が出ている。僕はそれをフィルム面にあらわし一層|明瞭《めいりょう》にしたのに過ぎない」
「では、あの事件の犯人の跫音が撮《と》れているのですか?」僕は早くそれが知りたかった。
「そうだ。あの時間に一階から二階へのぼって行った一人の人間がある。五分ほどすると同じ人間が二階から一階へ降りて行った。そのあとあの事件|発覚後《はっかくご》までは、誰もあの階段をあがらなかったのだ」
「それは誰です。僕だけに鳥渡《ちょっと》教えて下さい、お願いします」
 と僕は哀願《あいがん》した。
「それはお断りする」と四宮理学士は冷然と僕の願《ねがい》をしりぞけた。こうなっては僕のとる道は一つより外《ほか》ない。身を飜《ひるがえ》して自分の室に帰ると、大急ぎで電話機をとりあげると、研究事務室を呼び出した。あの室では言えないからミチ子をこっちへ呼びよせ、逃亡《とうぼう》をすすめる心算《つもり》だった。だがどうしたものだか十秒たっても二十秒過ぎても、誰も出てこない。僕は仕方なく、室を飛び出すと、ミチ子の所在《しょざい》を知るために、事務室へ出かけた。把手《ハンドル》を廻し扉《ドア》を内側へ押しあけたが、室にはミチ子も佐和山女史も居なかった。それでは図書室であろうと思って、間《あいだ》の扉を図書室へ開いたその途端《とたん》であった。奇妙とも妖艶《ようえん》ともつかない婦人の金切声《かなきりごえ》が頭の上の方から聞えたかと思うと、ドタドタという物凄い音響がして、佐和山女史の大きな身体が逆《さかさ》になって転《ころが》り落ちて来ると、ズシンという大きな音と共にリノリュームの前に叩きつけられた。僕は茫然《ぼうぜん》と女史の、あられもない屍体《したい》の
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