」と簡単に否定した。そしていつになく机をはなれると僕のそばに寄って来て頬と頬とをすりつけんばかりにして、僕の思いがけなかったようなことをしらせてくれた。
「あの日、貴方がきっと見遁《みのが》している人があると思いますわ。それはわたくしからは申しあげられませんけれど、ミチ子さんにお聴き遊ばせ、その人はカフス釦《ボタン》をあの二階のところへ落してしまったらしいのです。気をつけていらっしゃい。ミチ子さんがこれからも幾度となく二階へ探しに行くことでしょうから……」
「そのカフス釦は何時《いつ》なくなったのですか?」
「それは存じません」
「四宮さんじゃないのですか。四宮さんがなにか二階で探しものをしていたのを見たことがあるのですがね、尤《もっと》も事件のあるずっと三十分も前でしたが」
「まあ、四宮さんが二階で、二階のどこです?」
「階段のうしろだったです。貴女の言われるのは四宮さんじゃないのですか?」
「エエ、それは」女史は口籠《くちごも》りながら「やはり申上げられませんわ」と答えた。僕は佐和山女史も何か一生懸命に考えているらしいことを感付かぬわけに行かなかった。女史のむっちりした丸くて白い頸部《けいぶ》あたりに、ぎらぎら光る汗のようなものが滲《にじ》んでいて、化粧料《けしょうりょう》から来るのか、それとも女史の体臭《たいしゅう》から来るのか、とに角《かく》も不思議に甘美《かんび》を唆《そそ》る香りが僕の鼻をうったものだから、思わず僕は眩暈《めまい》を感じて頭へ手をやった。「彼奴《きゃつ》」がむくむくと心の中に伸びあがってくる。女史も不思議な存在だ。
 僕は扉《ドア》を押して図書室へ入って行った。三階へのぼる気はしない。一階の読書机に凭《もた》れて鼻の先にねじれ昇る階段を見上げていた。すると二階でコトンコトンと微《かす》かに音がする。神経過敏になっている僕は、或ることを連想してハッと思った。何をやっているのだろうか。二階へ直《す》ぐ様《さま》昇ろうかと考えたが、僕が行けばやめてしまうにきまっている。僕はいいことを思い付いた。それは、一階には手のとどかない高い書棚の本をとるために軽い梯子《はしご》のあるのを幸い、これを音のすると思われる直下《すぐした》へ掛け、それに昇って一体何の音であるのかを確《たしか》めてみようと考えた。僕は静かに椅子から身を起すと抜《ぬ》き足|差《さ》し足で、その梯子のある階段のうしろへ廻った。がそのとき階段のうしろで、意外なことを発見してしまった。というのは、廊下へ通ずる戸口《とぐち》の蔭に、ミチ子と、それから何ということだろう、友江田先生とが、ピッタリ寄《よ》り添《そ》って深刻な面持《おももち》で密談をしていたではないか。
「これは、古屋君」
「先生、えらい事件が起りましたね」
「いまも京町さんと話をして居たことです。ソフトカラーをしているお互いは、ネクタイで締められないように用心《ようじん》が肝要《かんよう》だとナ。ハッハッハッ」先生は洞《うつろ》のような声を出して笑った。ミチ子は僕達のところから飛びのくと、タッタッタッと階段を二階へ登って行ったので僕の計画は見事に破壊せられてしまった。だが先生はミチ子と何の話をしていたのだろう。


     4


 こう嫌疑者《けんぎしゃ》ばかりが多くては困ってしまう。僕は誰と相談してよいのか、誰を犯人の中からエリミネートしてよいのか判断に迷った。
 僕は徹夜して犯人の研究をしたのであるが結局、疑いはどこまでも疑いとして残った。この上はどうしても積極的行動によって犯人を見出さなければならない。その時に不図《ふと》頭の中に浮び出《い》でたことは、あの図書室の三階には、初めて僕がのぼって行ったときに直感した通り、何か重大な秘密が隠されているのであるまいか。僕は何の気もなく三階にいつも上《のぼ》っていたのであるが、あそこは犯人と少くとも死んだ所長とが覘《ねら》っていたのに相違ない。犯人はそれを明《あか》らさまに他人に悟《さと》られることを恐れ、殊更《ことさら》図書室の二階か一階かとなりの事務室かに蟠居《ばんきょ》して、その秘密を取り出すことを覘《ねら》っているのではなかろうか。そうだとすると、人知れず三階に登る人間を、ふンづかまえる必要がある。そこで僕は一つカラクリを考えついた。それは三階へのぼる階段の一つへ、階段と同じような色の表紙を持ったスコットランド・ヤードの報告書を載《の》せて置こうというのである。若し三階へ昇った人間があればなにか足跡がのこるであろう。たとえそれは泥がついていなくとも、リノリュームの脂《あぶら》かなんかがきっと表面に付着するだろう。それを反射光線を使い顕微鏡で拡大すれば吃度《きっと》足跡が出るに違いない。僕は科学者らしいこの方法に得意であった。
 翌
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