前に立ちつくした。僕はいまだにその妖艶《ようえん》とも怪奇とも形容に絶する光景を忘れたことがない。僕は敢えてここにその描写を控えなければならないが、女史が生前つとめて黒い着物を選んでいたのは、女史の豊満な白い肉塊《にくかい》を更に生かすつもりであったことと、女史が最後につけていた長襦袢《ながじゅばん》が驚くべき図柄《ずがら》の、実に絢爛《けんらん》を極《きわ》めた色彩のものであったことを述べて置くに止《とど》めたい。
 茫然《ぼうぜん》と突っ立っている僕の側《そば》を、何処《どこ》に居たのかミチ子が脱兎《だっと》の如く飛び出して、螺旋階段を軽業のように飛び上って行ったが、呀《あ》ッという間にまた上から飛び降りて来たのであるが、どうしたものか、まるで音がしなかった。それとともに何ヶ月振りかで彼女の白い太股についている紫色の痣《あざ》のようなものを見た。それは軽業師《かるわざし》にして始めてよくする処の外のなにものでもない。僕は四宮理学士が先刻《さっき》言った言葉を思い出して、悒欝《ゆううつ》になった。それにしても四宮氏は二階に居ないのかしら。
「四宮さん!」
「……」
「四宮さんは二階に殺されていてよ」とミチ子が耳の傍《そば》で囁《ささや》いた。サテは、と思って僕がミチ子を見据《みす》えた時、階上で叫ぶ声が聞えた。
「一体どうしたのだ。医師《いしゃ》を五六人呼んでこい。早く早く」
 その騒ぎのうちに僕はミチ子を逃してやりたかった。
「早くおにげ」僕はかすれた声を彼女の耳へ送りこんだ。
「まア、なにを言ってるの、貴方こそお逃げなさい、今のうちに」そう云って彼女は袖の中から褐色《かっしょく》の表紙のついた本を僕に手渡すではないか。それは例のカラクリに用いたスコットランド・ヤードの報告書であった。僕は狐につままれたようになにがなんだか判らなくなった。
「なにを勘ちがいしているのだ、僕じゃない」
「隠しても駄目よ。あんた、三階の階段にこの本を置いといたでしょう。リューマチの佐和山さん、あの本を踏むと滑《すべ》り落ちたのよ、なにもかも知っているわ、所長のときのこと、四宮さんのこと」
「いやちがう」僕は当惑した。何と言ってミチ子をなだめたものだろうかと眼の前に立つミチ子の肩をつかまえようとしたときに、佐和山女史|墜落《ついらく》の音をききつけた所員が方々からドヤドヤと駈けつけた。僕は、もう力もなにもぬけちまって
「二階を、二階を!」
 と指《ゆびさ》して所員の応援を求めた。
 二三人の所員がかけあがる。
 と予期したとおり大きな喚声《かんせい》が二階にあがった。
「四宮さんがネクタイで絞殺《こうさつ》されている!」
「なに、四宮君が……」
 彼女こそ、やったのではあるまいかと、その顔を見詰《みつ》めた。睫毛《まつげ》の美しいミチ子の大きな両眼に、透明な液体がスウと浮んで来た。ふるえた声でミチ子が言った。
「……だから、あたし、貴方のために、殺人の証拠になる此の本を取って来てあげたのよ」


     5


 佐和山女史の懐中からは、四宮理学士の撮った跫音《あしおと》の曲線をうつした写真が出た。それは多分、三階のどこかに学士が危険を慮《おもんばか》って、秘《ひそ》かに隠匿《いんとく》して置いたものであろう。それには明らかに、所長殺害事件のあの時刻に佐和山女史の一種特別な跫音波形《きょうおんはけい》が印《いん》せられていたのであった。女史は、女理学士認定の蔭に所長となにか忌《いま》わしい関係を結んだものらしくその情痴《じょうち》の果に絞殺事件が発生したと伝えられる。四宮理学士の絞殺も同一手段で行われたのであったが、学士が女史の犯跡《はんせき》を握っていたので、已《や》むを得《え》ず殺害したものらしい。女史が僕にきかせた釦《ボタン》の話は、未《いま》だに解らないが、あの顕微音器のことを、マイクロフォンボタンというから、何かその辺のことをもじって事件の混乱を計画したものであろうと思われる。
 友江田先生とミチ子との関係は異母の兄妹であることが判った。妹のミチ子はその父の変質をうけ継ぎ、小さい頃から自らすすんで曲馬団の中に買われて日本全国を漂泊《ひょうはく》していたのを、友江田先生がヤッとすかして連れもどり、タイピスト学校に入れたりしてやっと一人前の女にし、国研へ就業《しゅうぎょう》させたものであるが、決して兄妹《きょうだい》とも知合《しりあい》であるとも他人に知られてはならないという約束であった。
 だがこれを知ったのは、僕たち二人が友愛結婚をしてしまったあとの話である。
 僕たち同士の変質は(それは亡《な》くなった四宮理学士にはよく判っていたのだろう、恥かしいことだ)もう一日でも別れ別れになることは出来なくなっているのだ。そうだ。今日もこれから
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