あの事件のあったとき階段を誰かが降りて来る跫音《あしおと》を、お聞きにならなかったですか?」
「さア、存じませんね」
「硝子扉《ガラスど》がガチャンと言ったでしょう」
「ちっとも気がつきませんでしたよ」
 女史は平然と答えた。僕は或いは自分の思いちがいで跫音をきき扉《ドア》の鳴るのをきいたのかと思いかえしてもみたが、それにしてはあまりに明らかな記憶だ。階段が一種のリズムをもって鳴ったことをどうして忘れられようか。
 今度はミチ子を尋問《じんもん》した。尋問というと固苦しく響くが、そんな固苦しい態度に出《い》でなければミチ子と話なんか出来る筈のない僕であった。それは初恋の経験を持たれる読者諸君には、覚《おぼ》えのあることであろうと思う。そのミチ子――愛人ミチ子はあの事件の三十分前には確《たしか》に図書室に居たが、事件の後一時間ほども所在が不明であった。
「ミチ子さん(こう呼んでもいいかしらと僕は思った)貴女《あなた》はあの事件のあった時間、何処《どこ》へいらっしゃいました」
「あたし? どこに居たっていいじゃないの」
 と彼女は朗《ほがら》かだった。
「あれから一時間も貴女は室《へや》にかえって来ませんでしたね。どこへ行っていました?」
「ほほ、あたしは別段|怪《あや》しかなくってよ。鳥渡《ちょっと》外へ出て木蔭《こかげ》を歩いていただけなのよ。だけど、古屋さん、貴方自身は所長さんと嚢《ふくろ》の中に入っていたようなもので、手を一寸《ちょっと》伸ばせば所長さんの頸《くび》に届くでしょうね」
「馬鹿なことを!」僕は真赤《まっか》になってこの小娘を睨《にら》み据《す》えた。「僕は所長になんの恨《うら》みがあるのです。十日前に入れて貰ったばかりじゃありませんか、恩こそあれ、仇《あだ》なんか……」
「古屋さん。いまの言葉は、あたしの頭が考え出したわけじゃないのよ。あたしは、或《ある》人がそう言っているのを訊《き》いたのよ」
「誰がそう言ったんです? 僕は……」
「……」彼女は返事をする代りに、前の大きい机を指《ゆびさ》した。そのとき事務室の扉があいて佐和山女史のむっつりした顔があらわれた。
「ミチ子さん。四宮さんのお呼びよ」
 ミチ子が室を出て行くと、僕は佐和山女史に今|訊《き》いた話をして女史の反省を求めた。だが女史は「わたくし、そんなことを申した覚《おぼ》えはございません
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