神戸
    19日  未明   百数十  名古屋
    25日  未明   一三〇  名古屋
    27日  朝    一五〇  九州北部
        夜   六、七十  同
    30日  夜     二〇  名古屋、伊勢湾
    31日  未明    三〇  瀬戸内海、北九州
        朝    一七〇  九州
  4月2日  未明    五〇  東京西北
    4日  未明    五〇  関東北部、京浜
        同     一〇  静岡
        同     三〇  京浜市街地
    12日  朝 相当数の数編隊 関東地区
    13日  夜    一七〇  東京市街
    15日  夜    二〇〇  京浜西南部
    17日  昼   七、八〇  鹿屋、太刀洗
    18日  朝     八〇  鹿児島、宮崎、熊本
        同     二〇  太刀洗
    21日  朝    一八〇  主力九州南部、一部九州北部
    22日  朝    一〇〇  宮崎、鹿児島
    24日  朝    一二〇  主力立川、一部清水、静岡
    26日  朝     六〇  宮崎、大分
        同     三〇  山口、福岡
        同     四〇  宮崎
    27日  朝    一五〇  鹿児島、宮崎
    28日  朝    一三〇  同
    29日  朝    一〇〇  同
    30日  朝     六〇  大分、宮崎、鹿児島
  5月3日  夜    十数機  阪神
    4日  朝   三十数機  四国、近畿
        同    十数機  関門地区
        同     五〇  大分、長崎
    5日  朝     三〇  大分、福岡
        同    一一二  四国、中国
        昼     三八  鹿児島
        夜   二十数機  瀬戸内海
    7日  朝     六〇  大分、鹿児島
    8日  朝  二十九目標  四国、九州
    10日  朝     三〇  松山、御前崎
        同    三五〇  大分、山口、広島
    11日  朝     六〇  阪神
        同     二五  北九州
        昼   十六目標  鹿児島、宮崎、四国西南部
    14日  朝    四〇〇  名古屋

 今度は東京市街爆撃に四百機が廻ってくるだろうと、皆覚悟しているが、まだ来ない。
 名古屋は昼間の強襲に加え、翌夜にはさらに百機が来襲した。
 名古屋地方は、来襲頻度が多いわりに、被害がすくないのは、防空、防火の用意よろしく、天井などは早くから取除いてあったためである。
 しかし四百機の来襲で、金鯱《きんしゃち》の名古屋城天守閣も焼失した。大きな建築物の受難時代である。敵は三キロ焼夷弾を使い出した。
◯このごろ壕内へ持込むものは、次のようなものだ。
 御神霊、財産に関する書類、写真機、平常洋服、蒲団、昌彦[#三男、腎臓病で横臥中]の尿壜、衣料リュック。
◯沖縄地上戦況は数日前より重大化す、との報道。又とられるのか、と憂鬱になる。
 今後は一体どうするのか。
 分っているじゃないか――というわけだが。
◯この頃「しかし」という言葉がいやになった。ラジオの報道で、初めいい話を聞かせておいて「しかし」と来る。このあとは、あべこべの悪材料悲観材料の展開だ。「しかし」がいやになったゆえん。
◯昨日来た映配南方局米本氏の話に「このごろ作家のところへ原稿依頼を三十本出しても、返事の来るのは七、八本です。みなさん疎開とか、よそで別の仕事をやっていらっしゃるのですね」と。
 然り、わが二十三名生存の挺身隊[#一九三二(昭和十七)年一月から五月にかけて、海野は海軍報道班文学挺身隊員として従軍]も、東京在住者は十二名。十一名は地方に在り。挺身隊がこれである。况んや他の文士に於いてをや。

 五月二十日(日)
◯岡東来る。彼のためにとっておいた「暁」五袋とキングウイスキー少量、それから野菜は玉ねぎ一貫匁とごぼう二本位、岡東は缶詰四個とバター一|封度《ポンド》をくれる。
 二人の話はあいかわらず食うこと、飲むこと、喫うこと、壕の話、戦況などに終始する。実際この頃はこんな話さえしていれば種はつきない。
 それにしてもお互いに腹を減らしているのだ。
「ジャガイモを腹一ぱい食べたい」と岡東はいう。加藤さんが会社から帰るとき電車の中で押されても、腹がへっていて押しかえす力がないという。きょう枝元老人から手紙が来て(企画用紙送り来る)「この用紙を届けに行くべきながら、お粥腹《かゆばら》で歩けないので、郵便にします」と断りの文句があった。
 自分もこの二、三日腹が減ってかなわず、なんということもなく廊下トンビ[#用もないのに廊下をうろつき回ること]をくりかえしていて、おやと気がつく。子供は騒いでいないのに、おやじの私がこのていたらくでは困ったものだと赧《あか》くなる次第である。
 もっとも、昼は雑炊二わんであるので、減るのも無理はない。
◯昨日も今日も、一機侵入の敵機めが爆弾を落として行く。昨日は日本堤の消防署に命中、今日は東京湾の海中に命中。
◯閑院宮殿下が薨去《こうきょ》された。
◯目下マリアナ基地にはB29が六百機位いる見込み。

 五月二十三日
◯連日天候わるく、雨の降らぬことなし。敵機もいっこうにやって来ない。
 電車に乗っても、防空頭巾を持っているのがまず三割程度。人間というものは、鋭敏なりとほめるべきか、それとも面倒くさがりやだとけなすべきか、それとも、油断をするな、と声をかけるべきか。
◯今日は雨降りなれど、ちと気温上る。すなわち十六度となる。昨日は十三度どまり。天候漸く恢復の兆あり。
◯昨日は畠をこしらえ、加藤完治[#満蒙開拓移民の指導などに当たった、明治―昭和期の農本主義者]さんの話にならい、甘藷《かんしょ》の皮を植えてみる。
[#カット「甘藷植えの図」入る。54−上段]
◯昨夜は、初めて写真の引伸ばしというものをする。成功した。出来てみれば成功とかなんとかいうほどのものならず、簡単に行った。
 この頃写真の現像、焼付、引伸ばし、みんな自分でやっている。
◯陸軍軍需本廠研究部へ売却することとなった学術書籍及び雑誌を、今日先方からとりに見える。学生さんが三人、そのうちの一人は良太[#甥]君だから笑わせる。
 午前と午後と二度、雨の中を重い風呂敷包を背負って帰った。さぞ腹が減ることと同情したが、何の風情もない。わずかに一切れの手製パンに、先日岡東より貰った小岩井のバターをつけ、砂糖なしの紅茶を出して、気をまぎらして貰った。

 五月二十四日
◯零時二十八分に関東海面に警戒警報が出た。「数目標」という。英[#夫人]と一緒に起き出て、まず二人は支度する。そのうちに関東地方に警戒警報が出た。皆を起こして支度をさせる。また重要物件を防空壕へ入れる。水をあちこちへ置き、水道へゴム管をつなぐ。そのうちに空襲警報となる。一同防空壕に入る。
◯もうこのときは品川あたりが燃えていた。一番機の投弾だ。「また品川か」と思ったが、今夜はきっと違った狙いでやってくると察していた。品川が初まりで、渋谷の方へ伸びて来るかと思った。二番機、三番機と、少しずつ北へ寄って来る。いよいよそのとおりらしい。
◯激しいB29の焼夷弾攻撃が始まった。三千メートル位に降下している。照空灯の光の中にしっかり捉えられている。ものすごく地上砲火が呻り出す。永い間ためてあった砲弾を打出すといったような感じである。
 月のある夜空を、火災の煙が高く高くのぼって行く、その煙雲のふちはももいろに染まっている。
 川開きのような、下がってくるオーロラのような焼夷弾の落下である。
◯撃墜されるB29が火達磨《ひだるま》となって尚飛んでいるすさまじさ。そのうちに空中分解をしたり、そのまま石のように燃えつつ、落ちて行く。闇の方々より、拍手と歓声が起こる。そして地上防空活動も、士気大いにあがった。
◯放送でも「今日の敢闘は賞讃に値いする」といった。
◯焼けたところはよくわからぬが、千駄ケ谷もやられた由。夜ほのぼのと明ける。

 五月二十五日
◯五反田の電気試験所のまわりがひどく焼け、電気試験所は一部が焼けたと、昨日中川[#中川八十勝、電気試験所時代の同僚]君が報せてくれた。そこで今日は自著十一冊を手土産として、同部へ見舞に出かけた。
◯電車は、昨日までは、大橋―渋谷間が不通で、省線は新宿―品川―東京間が不通であったが、今日は渋谷まで行くし、省線も五反田まで行く。が、省線電車は五反田の手前でエンコをしてしまい動こうともしない。そこで飛降りて堤下に至り、路をあるく。もちろん日野校をはじめ界隈は焼野原であった。五反田の焼跡風景も、浅草上野の焼跡風景も、同じであることに気がついた。
◯電気試験所は第一部が全焼していた。新館、旧館各棟は異状なしであった。裏門前一帯もすべて焼けつくし、第二日野校ももちろん丸焼けである。そしてアスファルトの上に焼夷弾が十四、五発つきささっているのは、胸にこたえる風景であった。同校の防火壁だけが厳然と焼け残り、その両側は空であるのも異様な風景であった。
◯米国飛行士一名、五部の元蓄電池室の裏へ降りし由。石井君たちが捕虜とした。ピストル二丁、弾丸二十発位、持っていた。まず後手を縛したる上、桜の木のところへ連れていって、木に上下をしっかり縛りつけたという。当人は至極温和しかったそうだ。
◯後藤睦美君が、バラスト管の代用品をこしらえてくれた。
 同君の一家も痩せてくるので、浜松へ疎開するそうだ。
◯空襲警報となる。P51、約六十機と嚮導《きょうどう》のB29、二機。しかし機影を見ず。

 五月二十六日
◯昨二十五日夜は風が強かった。ふと目がさめると「いかなる攻勢にあうとも敢闘を望む……」と放送をしている。警報にも気がつかなかったらしい。又ラジオの情報も分らなかったらしいのだ。英と相談して起きる。と、空襲警報のサイレンが鳴り出したので、少々面喰らう。
◯初めは房総東方からきて、品川あたりへ投弾したので、「ハハア、また品川が狙われたか」と思っていると、その数十機が過ぎたとたん、西方からぞくぞく侵入し来たB29の大群。それが今夜は、まさにわが家上空を飛んで東方・渋谷方面へ殺到し、やるなと思う間もなく同方面に焼夷弾の集中投下を見る。例のとおり華やかな火の子はオーロラの如く空中に乱舞し、はらはらと舞い落ちる。従来より最も近いところに落下する。
 そうするうちに、南の方へもぞくぞく落ち出したが、また北方・中野方面にもひんぴんと落下し、かなり近い。これは警戒を要すると思っているうちに西の方へもばらばら落ち出し、東西南北すっかり焼夷弾の火幕で囲まれてしまった。
 が幸いにも、若林附近はまだ一弾も落ちない。敵は百五十機位もう侵入したことになった。西方の田中さんの畑に晴彦と共に出て空を見ていると、二子玉川あたりの上空を越えてぞくぞく後続機が一機宛こっちへ侵入してくる。其の方向はすべてこっちへ向いているのだ。これはいよいよ来るわいと思った。
 すると果して轟音を発して、山崎や若林のお稲荷さんの方が燃え出し、つづいて萩原さんの竹藪の向こうに真赤な火の幕が出来、三軒茶屋方面へ落下したことが確実となった。
 わが夜間戦闘機も盛んに攻撃している。たいがいわが家の西方で邀撃《ようげき》。
 晴彦に「あれは危いぞ!」とこっちへ向いた一機を指した折しも、ぱらぱらと火の子がB29の機体の下から離れたのがわが家よりやや西よりの上空。「いかんぞ!」と言うのと、ゴーッと怪音が頭上に迫ったのと同時だった。晴彦に待避を命じて小さくなった。焼夷弾の落下地点に耳をそばだてていると、佐伯さんのあたりに轟然と落下し、あたりに太い火柱が立った。婦人たちの悲鳴、金切声な
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