れた新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
 降伏を選ぶか、それとも死を選ぶか? とトルーマンは述べているが、原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅《せんめつ》にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞《おそ》れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなる事であろう。
 戦争は終結だ。
 ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。
 これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
 ソ連といえども、これに対抗して早急に同様の原子爆弾の創製に成功するか、またはその防禦手段を発見し得ざるかぎり、対米発言力は急速に低下し、究極に於いて日本と同じ地位にまで転落するであろう。
 原子爆弾創製の成功は、かくしてすべてを決定し、その影響は絶対である。
 各国共に、早くからその完成を夢みて、狂奔、競争をやってきたのだが、遂にアメリカが第一着となったわけだ。
 日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科[#芳雄。原子核の研究に取り組み、理化学研究所に日本初のサイクロトロンを建設した物理学者]博士の心境如何? またわが科学技術陣の感慨如何?

 八月十一日
◯海作班[#海軍報道班文学挺身隊]第三準備会にて我家に集合。倉光(俊夫)、間宮(茂輔)、角田(喜久雄)、湊(邦三)、村上(元三)、鹿島(孝二)、摂津(茂和)、小生の八名集まる。
 今日は宿題を検討する予定なりしが、それよりもソ連の参戦、原子爆弾のことの方が重大となったので、このことを検討す。
「天皇に帰一し奉れ」という湊君の説、「生きぬいて作家として新しき日本を作る基礎をつくれ」という間宮君の説、いずれもまじめで真剣。
「全員戦死だ」と最後に倉光君が口を開く。「時と所を異にして……」。一同感慨無量。
◯夜半、盛んに起される。最後に侵入の一機も、原子爆弾を抱いてくるかもしれぬとて「とくに警戒を要す」と放送がある。しかし何事もなく、くたびれ果てて、泥のように眠った。むし暑い夜。

 八月十二日
◯十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
 午後二時迄に、その返答が米英から届くそうだと、新田君が来ていう。
◯とにかく、遂にその日が来た。しかも突然やって来た。
 どうするか、わが家族をどうするか、それが私の非常な重荷である。
◯女房にその話[#家族全員で死ぬこと]をすこしばかりする。「いやあねえ」とくりかえしていたが、「敵兵が上陸するのなら、死んだ方がましだ」と決意を示した。
 それならばそれもよし。ただ子供はどうか?
 子供も、昨日のわが家の集会を聞いたと見え、ある程度の事情を感づいているらしい。「残っているものを食べて死ぬんだ」といったり「敵兵を一人やっつけてから死にたい」という晴彦。
 青酸加里の話まで子供がいう。私はすこし気持ちがかるくなったり、胸がまた急にいたみ出したりである。
 暢彦[#次男]は学校で最近「七生報国《しちしょうほうこく》[#七たび生まれ変わって、国に報いるの意]」という言葉を教わって来たので、しきりにそれを口にする。私も「七生報国」と書いて、玄関の上にかかげた。
◯自分一人死ぬのはやさしい。最愛の家族を道づれにし、それを先に片づけてから死ぬというのは容易ならぬ事だ。片づける間に気が変になりそうだ。しかしそれは事にあたれば何でもなく行なわれることであり、杞憂《きゆう》であるかもしれぬ。

 八月十三日
◯朝、英[#夫人]と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 私は、子供達のことを心配した。ところが英のいうのに、かねてその事は言いきかしてあり、子供たちは一緒に死ぬことにみな得心しているとのことに、私は愕《おどろ》きもし、ほっとした。そして英からかえって「元気を出しなさいよ」と激励された。
 事ここに決まる。大安心をした。
 しかしそうなると、どっと感傷が湧き出るとともに、さらになお、何かの誤りが責任者の私になきやと反省され、完全に朗かにはなりきれなかった。
 この夜も、よく眠れなかった。

[#この日、海野がしたためた遺書を、以下に引く]

 遺 書
一、事態茲ニ至ル
 大御心ヲ拝察シ恐懼言葉ヲ識ラズ
一、佐野家第十代昌一ヲ始メ妻英、長男晴彦、二男暢彦、三男昌彦、二女陽子ノ六名、恐レ乍大君ニ殉ズルコトヲ御許シ願フ次第也
一、一族憤激シ、絶頂ニ在ルモ、倶ニ抱キ朗顔ヲ見交ハシテ、此ノ世ヲ去ル
 魂魄此土ニ止リテ七生報国ヲ誓フモノナリ
一、時期急迫ノ為メ、親族知己友人諸兄姉ニ訣別スル余裕無カリシヲ遺憾ニ思フ、乞フ恕セヨ
一、御近所ノ皆々様、御挨拶モ申サズ、日頃ノ御礼言モ申述ベズ、御先へ参リマス御無礼ヲ何卒悪シカラズ御宥恕下サイ、御多幸ヲ祈ッテ居リマス
一、我等ノ遺骸ハ其ノ儘御埋メ捨テヲ乞フ、竹陵ノ眠ヲ覚マシ給フ勿レ、合掌
一、遺品等ノ処置ハ御面倒乍ラ左記親族或ハ知人ノ誰方カノ手ニテ然ルベク御処分相成度

 神崎昌雄殿(英ノ実兄)
  世田谷区世田谷一ノ一〇二七
 小泉佑一殿(昌一ノ実弟)
  豊島区千早町二ノ一七
 朝永良夫殿(甥)
  同居中
 永田徹郎殿
  香川県観音寺海軍航空基地気付
  ウ三三八士官室
 永田朝子殿(娘)
 永田正徳殿(婿ノ父)
  鹿見島市天保山町五八
 岡東 浩殿
  麻布区本村町二六
 中川八十勝殿
  同居中
 村上勝郎先生(友人)
  若林町四〇〇
 萩原喜一郎殿(大家サン)
 山岡荘八殿(友人)
  若林町一一〇
 大下宇陀児殿(友人)
  豊島区雑司ケ谷五ノ七一二
 柴田 寛殿(友人)
  世田谷区三軒茶屋一三一
 以上

 右 東京都世田谷区若林町一七九
    佐野昌一
[#引用、終わり]

 八月十四日
◯万事終る。
◯湊(邦三)君と街頭で手を握りあって泣く。
[#改丁、左寄せで]

降伏日記(一)

[#改ページ]
[#ここから2字下げ]
 序 昭和二十年八月

「空襲日記」変じて「降伏日記」と化す。
 新聞、会話等に於ても、意識してか無意識のうちにか「皇国降伏」の文字を使いたがらぬようであるが、それはいけないことだ。今やわれわれ日本人は、降伏者として――米英ソ中四国その他に降伏した者として十分に自識すべきである。この自識に徹底せざるときは、恐れ多くも詔書にお示しになった御教えから逸脱し、国際信義にもとり、世界平和と新しき問題たる地球防衛に欠くるところあり、また、日本民族の美点と生長とを芟除《さんじょ》することになる。
 もちろん苦難|忍辱《にんじょく》のこの途である。一通りや二通りの覚悟ではつとめ切れない。日記を書くのも反省以て新しい勇気を起こさんためである。
[#ここで字下げ終わり]

 八月十五日
◯本日正午、いっさい決まる。[#戦争終結の詔勅を放送]恐懼《きょうく》の至りなり。ただ無念。
 しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
◯今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合わすいとまもなし。よって、明日は最後の団欒《だんらん》してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。

 八月十六日
◯湊君、間宮君、倉光君くる。湊君「大義」を示して、われを諭す。
◯死の第二手段、夜に入るも入手出来ず、焦慮す。妻と共に泣く。明夜こそ、第三手段にて達せんとす。
◯良ちゃん、しきりに働いてくれる。

 八月十七日
◯昨夜から、軍神杉本五郎中佐の遺稿「大義」を読みつつあり、段々と心にしみわたる。天皇帰一、「我」を捨て心身を放棄してこそ、日本人の道。大楠公が愚策湊川出撃に、かしこみて出陣せる故事を思えとあり、又楠子桜井駅より帰りしあの処置と情況とを想えとあり。痛し、痛し、又痛し。
◯昨夜妻いねず、夜半に某所へ到らんとす。これを停めたる事あり。
 妻に「死を停まれよ」とさとす。さとすはつらし。死にまさる苦と辱を受けよというにあるなればなり。妻泣く。そして元気を失う。正視にたえざるも、仕方なし。ようやく納得す。われ既に「大義」につく覚悟を持ち居りしなり。

 八月十八日
◯井上(康文)、鹿島(孝二)君来宅。
◯熱あり、ぶったおれていたり。

 八月十九日
◯村上(元三)君来宅。
◯岡東浩君来る。うれし。
◯ようやく気もだいぶ落付く。されど、考えれば考えるほど苦難の途なり。任はいよいよ重し。
◯夜半、忽然として醒め、子供をいかにして育てんとするかの方途を得たり。長大息、疲労消ゆ。有難し、有難し。
◯けさ、広鳥惨害写真が新聞に出た。

 八月二十日
◯熱は少しく下がりしようなるも、体だるし。英[#夫人]も疲労し、やつれ見え、痛々し。しかし今日割合い元気になりぬ。
◯宮様[#東久邇宮稔彦首相]又もや御放送。
◯「大義」を村上先生(医師)へ、「大義抄」を奥山老士へ貸す。
◯「維摩経新釈」を読みはじむ。

 八月二十四日
◯昨夜より今朝迄、十二時間に亘りて雷鳴つづく。
◯防空総本部より発表あり。敵爆弾による死者二十六万人(うち原子爆弾死者九万人)負傷四十万人。罹災者九百万人。これは樺太、台湾を除く人口の六分の一に当たる。都市戦災八十市、うち大半焼失せるもの四十四市なりと。
◯遠藤長官発表して曰く「戦前の飛行機生産高は月産五百機、昨十九年六月は三千機、本年になって工場疎開や爆撃熾烈の中にも一千台を維持し得たり」と。
◯米機、明日よりわが本土に監視飛行を開始する。
◯疲労まだ恢復せず、無理に起きている病人の如し。
◯電灯の笠を元どおりに直す。防空遮蔽笠(ボール紙製)を取除き、元のようなシェードに改めた。家の中が明るくなった。明るくなったことが悲しい。しかし光の下にしばらく座っていると、「即時灯火管制を廃して、街を明るくせよ」といわれた天皇のお言葉が、つよく心にしみてきて、涙をおさえかねた。
◯いかなる事ありとも、外出のときはやはりもんぺをはくべし、と命令し置く。
◯暗幕はそのままにして置く。外から覗かれぬよう、また時にはあたりを暗くして置く必要ありと、思いしが故である。
◯手紙を書くことを極力ひかえつつあり。

 八月二十六日
◯昨二十五日、果して米軍機、監視飛行を始める。台風気味の低雲をついて、全身を鉛色に塗ったグラマン、二機以上の編隊でしきりに飛ぶ。子供はよろこぶ。
◯天候のため、連合軍の上陸は、四十八時間順延となった由。
◯十七日信州では「陸海軍に降伏なし、日本航空隊司令官」と伝単[#宣伝ビラ]をまいたそうな。
◯井上康文[#口語自由詩で、民衆の現実を描こうとした、「民衆派」の詩人]君の詩、昨二十五日夜放送さる。いやな気がした。われら当分筆を執るまい。
◯中川八十勝君、昨夜郷里広島へ出発。家族は大竹ゆえ、たぶん心配はないと思うが、友人、知己、親戚など広島に多く、この方が気がかりと見える。広島の死者は三万から九万にふえた。負傷は十六万だった。二十五万の広島でこれだけの死傷が一時に発生したのであるから、そのときの惨状は地獄絵巻そのものであったろう。誰かその画を描き、アメリカ、イギリスなどへ贈呈してはどうかと思う。
◯今日は放送二つを聴いて、洗心させられた。一つは陸軍大臣下村大将の「陸軍軍人及び軍属に告ぐ」の平明懇切なる諭《さとし》、もう一つは頭山秀之氏の「新日本への発足」という話で、日本の負けたのは敗
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