一日(火)
◯大三十日《おおみそか》の特徴は、速達の原稿料払いが三つ四つもつづいたこと、荒木さんが印税を持って来て、これが終りであった。
こっちも最終の払いをすませた。小為替と小切手で二万二千円ばかり、現金にて五千円ほど手許にのこった。
◯岡東浩君来宅。葡萄液と角ハムとキャンデー四つとを貰った。
こちらはめじまぐろ[#「めじまぐろ」に傍点]で、少しばかりあった酒を出す。そしてニュージランドのオクス・タンの缶詰をあける。たいへん美味しいとよろこんでくれる。この缶詰は半年もあけずに辛抱していたものである。
◯萩原氏はこの家を売るという。財産税を支払うに金がないためであるという。この家を買ってくれと頼まれているが、四十三坪あって、値段は十五万円位と最初の噂であったが、もっとあげるつもりかもしれない。十万円ならなんとか出せると思うが、十五万、二十万では仲々たいへん、いろいろな無理な工作を要し、且つ無一文となるから、そんなに出して買いたくなし。都合によれば、はなれをのこして本屋だけを買い、家族の居住を確保しようと方針を定めた。
◯ヤミ屋と華僑とが街を賑かにして賑からしくやっているが、大多数の国民はそのそばを素通りするだけだ。恐ろしくはっきりと区別のついた別の世界がわれらの傍に出来た。こんなにはっきりと二つの世界が出現したのは始めての経験だ。松飾りも買わない正月(ヤミ屋をわざわざよろこばせてなにになるか)、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]もきんとん[#「きんとん」に傍点]も街には売っているが、うちにはない正月(高いだけではなく粗悪で、とても買って来て届けられないと魚屋さんがいう)、汁粉屋だ中華料理だ酒だ何だと街には並んでいるが、そっちへは近づきもしない正月(ちがった世界の人々のために用意されたものであろう)――前の正月は、何にもなくてあっさりしていたが、こんどの正月はものがたくさんあって、しかもそれは買えないか、インチキもので手出しをすると腹がたつ、いやな正月である。昔、話に聞いた上海《シャンハイ》、北京《ペキン》やイタリヤの町風景と東京も同じになったわけである。しかし、これから先の正月は、更にそれが激化するのではなかろうか。
◯ラジオを聴きながら寝る。菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東叡山寛永寺のかねがよく入っていた。
[#改段]
昭和二十二年
一月一日(曇)
◯五十一歳。英は三十九歳。
陽子十七歳。晴彦十五歳。
暢彦十三歳。昌彦十一歳。
養母六十五歳。
◯英、頭痛にて寝込む。
◯例により、炬燵の船長相つとむ。
◯賀状もちらほら入っている。横溝[#正史。探偵小説家]君の手紙を例によりたのしみにして一番おしまいに披《ひら》く。私の処女作「電気風呂の怪死事件」が昭和三年の春の『新青年』に出た頃の秘話(?)を始めてきかしてくれ、なつかしくなること一通りでない。
◯高橋栄一先生夫妻、モーニングに、奥さまは狐の襟巻というりゅうとしたる姿にて年賀に来て下さり、俄かにあたりが眩しく光を放ち出し、これにてようやく新年らしくなった。先生夫妻は麻布本村町の岡東浩君の宅へ転入されしは今から十日ほど前のこと。その礼などいわれる。
◯坪内和夫君来賀。いつも元旦に来てくれる和夫君。一年増しに立派になり、まことにうれしくなつかしく、三十五歳にて逝かれし故坪内信先生の面影がふと一閃、わが目前を過ぎて見ゆるような気がする。地下で先生もにこにこ笑っていられるに違いない。
◯村上勝郎先生、例によって来診、ビタミンB1[#「1」は下付き小文字]とCの注射も亦例の如し。大三十日以来腹ヤミにて、夜も元旦朝も起され、たいへんだった由。巷に汎濫する食料品のいかがわしさ以て知るべし。
◯夜は親子六人、八畳の炬燵を囲んで、雑誌や動物あわせに賑かに更けて行く。いいお正月だ。何はなくとも、また前途に何があろうとも、今夜ばかりは。
◯江戸川乱歩氏は几帳面に一号館書房の印税割あてを送って来て下さる。二千八百二十六円也。これ本年初収入なり。
一月二十三日
◯新春以来漸く冬籠り生活に落着く。
◯血痰は週に一度は必ずあり、但しまもなく消えてしまう。以前のように四日も五日も続くわけにもあらず、又量もそのように多くもなく、中|蚯蚓《みみず》の三分の一ぐらいなり。この頃夜間の咳少しくあることもあれど、一体に無し。喀血と称するほどのものに遭わざるは楽なり。
◯この家(若林一七九)を買ってくれと萩原の喜市さんが話に来る。財産税仕払に金が要る由。
◯高橋栄一先生(晴彦の元の先生)を岡東のうちへ世話して間借に及んだところ、このほど岡東の家が進駐軍に接収されることになり、二月十二日までに立退きを命ぜられ、上を下へのさわぎなり。友のために暗涙にむせぶ。入
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