たちを、大いに緊張せしめる事の出来なかったのは、何としても知事以下の努力の足らざるところと思われる。
 県庁も、駅も、郵便局も、警察署も焼け残ったそうで、その奮闘はたいしたものであったというが、それだけが焼残っただけでは困る。町が焼けずに残らねば何にもならぬ。
◯七月八日は栗橋の吉田修子さんの婚礼があり、目下入営中の戸主・卓治さんの心持もあり、私はその式に列した。それから平磯へいって講演をしたが、それが九日。十日は早目に帰京するつもりでいたところ、朝五時半から敵機動部隊が鹿島洋、九十九里浜沖から艦載機をぶんぶんとばすので、夕刻まですっかり平磯館に閉じこめられてしまった。
 ロケット弾を放つ小癪な敵機を見た。平磯館の裏は飛行場であるから、盛んに銃撃があった。しかしたいてい敵機が帰りがけの駄賃に撃っていった。
 平磯では取締りがやかましく、皆防空壕に入れといったり、町をあるいていると叱りつけたり、こんな小さな町がそう神経質にならずともと私は思ったが、誰の心理も自分のところが狙われているのだと信ずることには変わりはないようだ。
 午後五時四十分平磯発の汽車で、松村部長と共に帰京の途についたが、これが十二時間ぶりに動き出した初列車。水戸から上野へ走る列車はがらがら空いていて、乗客一人当たり六席か七席もあった。
 渋谷からは歩いて帰る。渋谷着は午後十一時十分であったが、玉川線は十時半が終車ゆえ、歩くしかない。焼跡の間の一本道を大坂上にかかったとき、警戒警報が発令された。あまり灯火を消す風も見えず、憲兵隊の漏灯をはじめ、民家にもコウコウたる点灯の洩れているのを見る。焼跡だからとの油断らしい。大橋に至り、焼けていない目黒方面を見ると、灯火管制は完全であった。焼跡住民の士気弛緩は慨《なげ》かわしい。
 帰宅までに二度、お巡さんから誰何《すいか》された。リュックの中の品物について訊問を受ける。それが大鯛であり、防空頭巾をかぶせてもまれるのを防いであるので、余計に大きく見える。この鯛は貰って来たものである事や、空襲下の平磯からようやく開通の列車で帰って来たことなどを話して、諒解して貰った。
◯中小都市の爆撃が始まり、猖獗《しょうけつ》を極めている。そのさきがけは、五月二十九日の横浜市への五百機来襲であった。
◯御影の益兄さん一家も、芦屋、御影、神戸東部の濃密爆撃のため、全焼した。しかし
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