た。人でも人体改良《じんたいかいりょう》には、非常な努力が払われ、そして改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものである」
「高等人間ですって。人体改造ですって」
「人体の進化を自然にのみまかせていたのは昔のことさ。なんという知恵のない話じゃないか。さればこそ昔の人間はやたらに病気にかかって悩み、そして衰弱し生命を縮めた。そればかりか人智《じんち》のレベルは、さっぱり向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為《じんい》的に人体改造進化を行う事によって病気と絶縁《ぜつえん》する。それから人智を高度にあげる。こんな思いつきは赤ん坊にでも出来ることじゃないか。もちろん今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の実在のみに注意力や情熱を集中して、遙かなる未来世界について夢を持つことをしらず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも想到《そうとう》しなかった。ああ哀《あわ》れなりし人類よ……」
 カビ博士は、日頃のとつ弁《べん》とはうってかわって雄弁に論旨《ろんし》をすすめていた。しかし僕は白状するが、博士の熱弁を聞くのは、もうそのくらいで沢山だと思った。
「先生。すると、そういう意味において、自然進化にまかせて来た僕の身体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね」
「そうだ。全く貴重なる標本だといわんければならん」
「じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇《こくひんたいぐう》を受けてもいいじゃないですか」
 僕は朗らかな気持ちになって叫んだ。


   暗い問題とは


「君を国賓待遇《こくひんたいぐう》にするなんて、とんでもないことだ。政府に見つかれば、もちろん君は海底冷蔵庫の壁になるしかないんだ」
 カビ博士は僕のことばをひっくりかえして、いつか僕が聞かされたと同じ警告をあびせかける。
「だって僕は、貴重な標本なんでしょう」
「そうさ。君は網の目をのがれている所謂《いわゆる》ヤミ物品だから値が高いんだ。しかしどう釈明《しゃくめい》しても君は合法的存在じゃない」
 ああ、ヤミというやつにはずいぶん悩まされた僕であるが、この海底都市へ来てまでヤミ扱いされるとは、なんという情けないことだろう。
「学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解《りょうかい》しないのですか」
「そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想境《りそうきょう》にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
 僕は非常に意外に感じたので、強く問《と》いただした。
 博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押しこんで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取ってつぶやくように低いことばをはき出した。
「それは言えない。わしの口から言えない。君のようなエトランジェ(異境人)には言えない」
 博士は、そのことばが終るとともに立上って、両の肩をぶるぶるとふるわせた。
 僕の好奇心は火柱《ひばしら》のようにもえあがったけれど、博士の沈痛《ちんつう》な姿を見ると、重《かさ》ねて問《と》うは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。
 しかし一体《いったい》なんであろうか。この完全文明理想境を脅《おびや》かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審《ふしん》でならないのだが……。
 僕はそれから間もなく、博士に別れた。
 別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留《ごうほうてきたいりゅう》を政府に対してあらゆる手段によって請願《せいがん》することを誓ってくれた。
 タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連《つ》れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
 少年は僕にきいてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉《と》じこめられていたので、気が詰《つ》まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠《すいみん》をとるといいんですが、その前に、喜歌劇《きかげき》見物でもしましょうか」
「喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
 僕とタクマ少年は、動く道路を利用し、第十八|歓楽街《かんらくがい》のクラゲ座へ行った。
 入場してみて、僕はやっぱりおどろかされた。すばらしい劇場だといって、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したすばらしさとは違う。
 場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放りだしてあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座をきめればいい。卓子《テーブル》を持って来れば、軽い飲物や喫煙に都合がいい。
 舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。すてきな俳優たち。出しものは三つ。第一が「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」第二は「火星人の引越しさわぎ」そして第三は「クレオパトラの蒸留《じょうりゅう》」と、番組に出ていた。今、舞台は「火星人の引越しさわぎ」が演ぜられていて、陽気な笑いが続いていた。
 客席は、朧月夜《おぼろづきよ》の森かげほどの弱い照明がしのびこんで来る程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか分りかねた。
 その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり屁《へ》をひったりするのであった。僕には勝手のちがうこと、いや呆《あき》れることばかりであった。
 それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。そのうちに睡《ねむ》くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳にとびこんだので、はっと目ざめた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息《せいそく》し得る特質を具備《ぐび》していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且《なおか》つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐《た》える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義《かんしょうしゅぎ》だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡《こんせき》程度残っているかもしらんが、海中|棲息《せいそく》の本能なんど有るもんですか」
 反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞きおぼえがあった。


   平衡器官《へいこうきかん》


 クラゲ座の中の、僕の座席のうしろで、喜歌劇見物はそっちのけにして、しきりに人類学について論じ合っている若い男女の声。それは、昼間、考古学教室で見かけた熱心な学生のダリア嬢とトビ君の声にちがいなかった。
 両人は、僕がすぐ前に腰を下ろしていることも気がつかないほど、夢中になって論争を発展させていた。
「いや、そういう君の論は、甚だしく定量性《ていりょうせい》を欠《か》いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさないのだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨《びこつ》があるからといって未だ一度も尻尾《しっぽ》を振ってみたい欲望を催《もよお》したことはないですぞ、ダリア君」
「それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路《ないじめいろ》の平衡器官《へいこうきかん》のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲《す》んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね」
「ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん」
「まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね」
「からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう」
「ごま化《か》していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得《なっとく》させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ」
「うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ」
「ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼《こう》あたまのトビ、トビタロ君」
 両人の仲が険悪になって来たので、僕は見るに見かねて座席を立つと両学生の間へ顔をつき出した。
「たいへん御両所とも討論にご熱心のようですが、ひとつ僕も中に入れていただいて、乾杯といきましょう」
 僕は給仕を呼んで酒を注文した。

 ダリア嬢とトビ君とは、僕が顔を出すと、顔を見合わせて、すっかり黙りこんでしまった。そして給仕が酒を持って来ると、両人は席からはじかれるように立った。僕が声をかけるのも聞かずに、両人はどんどん帰ってしまった。
 僕は、あとにいやな気持ちでとりのこされた。
 なにかが両人の気持ちを悪くしたにちがいない。しかしそれがなんであるかについては、僕にはさっぱり心あたりがなかった。
 同伴していたタクマ少年は、分かりませんと答えた。
 なんだか気持ちが悪い。
 劇場がはねると、僕はタクマ少年に送られてホテルに帰った。
 僕は部屋にひとりとなった。やがて僕はベッドの上に横になった。
 すぐには寝つかれなかった。昼間からの、あまりにも多いいろいろの刺戟的《しげきてき》な出来ごとを、それからそれへと思い続けていくと、ますます眼がさえて来た。
 それにしても、辻ヶ谷君が僕を時間器械でよびもどしてくれないことが不審《ふしん》でもあり、またありがたかった。たしかに二十年後の世界を約一時間散歩してくるという申し合わせで、僕はこっちへ来たわけだ。彼は何をしているのだろう。辻ヶ谷君も一しょに来ればよかったと思う。……
 急に睡《ねむ》くなった。
 それがあたり前の睡さでないことに僕はすぐ気がついた。どうしたんだろうと、いぶかしく思っているうちに、僕は知覚がなくなった。


   ふしぎな場所


 猛烈に睡《ねむ》い。
 しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅《か》がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
 それは果して麻薬であったか、それとも脳|麻痺力《まひりょく》のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐《ゆうかい》されたことはたしかだった。
 僕は徐々に眼ざめつつあった。
 かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼《ぶれい》だろう
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