。いや、強盗のたぐいに、無礼もへちまもないだろう。なんだって、その強盗は僕をこんなところへ……。
「おや、僕はすっ裸《ぱだか》になっているぞ」
いつの間にか僕の寝巻《ねまき》ははぎとられていた。まっ裸だ。これにはおどろき、かつあきれてしまい、その場に座り直した。そしてあたりをぐるぐると見まわした。
へんな場所であった。
お伽噺《とぎばなし》の中では、王城の奥のすばらしい美室へ誘拐されることもあるが、それは特別の場合で、誘拐されるとなると、多くの場合はあやしき場所へ連れこまれるのが普通であった。正《まさ》に僕はあやしき場所へ連れこまれている。床《ゆか》はつめたいコンクリート。四方の壁はどんな材料で作ってあるのか、墨《すみ》のようにまっ黒である。天井は――天井はすこぶる高い。五十メートル位はある。そして上に向いたときに発見したのであるが、四方の壁は十メートル位しかない。十メートルの壁が、立ちっ放しである。天井がそこにあっていいはずと思うが、そこは天井がなくてそれより四十メートルも高いところに天井がある。要するに、蓋《ふた》のない箱みたいなものの中に、僕が入っているんだ。
上には、放電灯が明るく輝いていて、僕を照明している。寒くはないが、はずかしかった。
と、そのとき床の上を、どこからともなく水が流れて来た。僕は身体をぬらすまいとして、ふらふらする足取りで、その場に立ち上がった。
が、水はいつの間にか嵩《かさ》を増し僕の足の甲を水が浸した。
それから先は、そんななまぬるいことではなかった。水嵩《みずかさ》はみるみるうちに増大して、水位《すいい》は刻々《こくこく》あがって来た。床の四隅《よすみ》から水は噴出《ふきだ》すものと見え、その四隅のところは水柱が立って、白い泡の交った波がごぼんごぼんと鳴っていた。
ひざ頭を水は越えた。間もなくお臍《へそ》も水中にかくれた。しかも増水のいきおいはおとろえを見せず水位はぐんぐんあがってくる。
(水槽《すいそう》らしいが、僕をどうしようというんだろう。水浴をさせるつもりでもあるまいに……)
水は僕の乳の線を越え、やがて肩を越した。僕は今にも溺《おぼ》れそうになった。爪先立《つまさきだ》ちをして僕は背のびをした。
(水責《みずぜ》めにして、僕を溺死《できし》させるつもりか。一体|何奴《どいつ》だ。こんなに僕を苦しめる奴は?)
もういけない。爪先で立っていても、水が鼻孔《びこう》に入って来る。仕方がないから僕はもう立っていることを諦《あきら》めて平泳ぎをはじめた。
水は塩っからかった。
(なるほど、海水だな)
平泳ぎから立泳ぎになったり、また平泳ぎにかえったり、僕は二十分間ぐらい泳いだ。相手は僕を泳ぎ疲れさせて殺すつもりかもしれない。しかし僕は、水に浮いていることなら十八時間がんばった記録をもっている。だからちっとも恐れなかった。
ただ一刻も早く、この憎むべき陰謀の主を見つけだして、きめつけてやりたい。
相手は、どこからか僕の様子を監視しているのに違いない。そう思ったから、僕はますます落着きはらっているところを[#「ところを」は底本では「ところ」]見せるために、泳ぎながら佐渡《さど》おけさを歌ったり、草津節《くさつぶし》を呻《うな》ったりした。
「だめね、これでは。水の中へ潜らなくちゃ実験になりゃしないわ」
壁の向うと思うが、かすかではあるが、そんな風にしゃべる女の声を聞いた。
あれッと、僕が緊張《きんちょう》する折《おり》ふし、水槽の横手の方から、ぎりぎりと硝子《ガラス》の板が出て来て、僕の頭の上を通りすぎていった。
「やっ、硝子天井《ガラスてんじょう》だ」
とつぜん出現した硝子天井は、僕を完全に水中におし下げた。
こうなると、鉢の中に入れられた金魚《きんぎょ》か亀《かめ》の子同然だ。金魚や亀の子なら、水中ですまして生きていられる。しかし僕は人間だ。空気を吸わねば生きていられない。これはいよいよ溺死《できし》の巻《まき》か。
僕はなぜ溺死させられるのか。
迫《せま》る硝子天井《ガラスてんじょう》
水槽の中の水かさはいよいよ増した。
僕は泳ぎ続けていた。
頭が硝子天井につかえるまでに水かさは増した。まっすぐに顔を向けて泳ぐことは、もう出来ない。鼻の孔《あな》も口も、共に水中に没してしまうからだ。仕方なく僕は平泳ぎをしながら、顔だけは横に寝かして、辛《かろ》うじて息をつくことが出来た。
(一体何者か。僕をこんなに苦しめる奴は。まさか僕を殺すつもりじゃないだろうと思うが、ひどい目にあわすじゃないか)
僕は、一生けんめい水をかきながら、姿の見えないこの暴行《ぼうこう》の主を恨《うら》んだ。
ところが、水かさは更にずんずん増して来るではないか。硝子天井は、容赦《ようしゃ》なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首《くび》を横にまげて泳いでいるので、頸《くび》の筋《すじ》がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
今や僕は溺死《できし》の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻《せっぷん》するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留《とうりゅう》する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門《どざえもん》になってしまうであろう。
またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力《ふりょく》が勝って身体の浮きあがるのを千秋《せんしゅう》のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
僕はもうやぶれかぶれだった。
拳《こぶし》をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛《げきつう》が全身を稲妻《いなづま》のように突《つ》き刺《さ》しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
僕の知覚はだんだん麻痺《まひ》して来たんだ。
わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
僕はそう悟《さと》った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
それからどのくらいの時間が経《た》ったか、僕は覚《おぼ》えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。
遠大なる実験案
僕は、うつ向いて、水を吐《は》かされていた。
胃袋の下に、砂枕《すなまくら》のようなものがあたっていた。そして誰かが、僕の背中に、ぐいぐいと力を加える。そうすると僕は、障子がひきさけるような音をたてて、ごぽごぽと下へ水を吐くのだった。
僕には見えないが、僕の頭の上で、がやがやと喋《しゃべ》っている人声がする。それは非常に遠いところで喋っているようにも思われる。僕の知覚は、まだ麻痺《まひ》状能を脱し切っていないのである。その証拠に喋っている人声が急に遠くなったり、また僕が水を吐いていることが分らなくなって花園の中に犬を追いまわしている夢の中に入ってしまったりした。僕の身体の方々には、三重にも四重にも違った疼痛《とうつう》があって、それに耐えるのに僕のエネルギーは精一ぱいであった。誰が僕の背中を押して水を吐かせているのか、誰が口論《こうろん》してるのか、頭をあげてその方を見る余裕など全くなかった。
それでも、時間の経過するにつれ、もうろうたる意識ながら、それがすこしずつ整理されて来るようであった。
すなわち、僕は盛んに罵《ののし》りあう男女の言葉の意味がところどころ分るようにもなったし、また僕の臀部《でんぶ》にいくども注射針がぶすりと突立てられることも分った。
「なんといっても、あたしの説が正しいと証明されたわけよ」
「いいや、そうはいえない。僕の説の方が正しい。そうでしょう、この実験動物は、正《まさ》に溺死《できし》してしまったじゃないですか」
「それは溺死したかもしれないわ、でもそれはこの実験動物が、目下|腮《えら》を備えていないために、水中で呼吸が出来ないという構造を持っているためよ。溺死しようと、この実験動物が水槽の中で見せた水中動物らしいあのすばらしい運動や反射作用や平衡感覚などはあたしの説を正しいものと証明したじゃありませんか。正にこの実験動物は、水中動物たるの機能を持ち、機能を保持していると断定できる。そうじゃなくって」
「そりゃね、いくぶんそれは認められるけれど……」
「ああ、なんてしみったれな仰有《おっしゃ》り様《よう》でしょうか。これだけ明らかなことを、しぶしぶ認めるなんてフェア・プレイじゃないわ」
「だがね、とにかくこの実験動物は一度|溺死《できし》してしまったんだ。だから、そう大きなことは、いえないわけだ」
「あなたは頭が悪いのね。そういう難癖《なんくせ》のつけ方は、何といってもフェアじゃないわ」
「まあ、そういうなら、それでもいいということにして、僕はもっとくりかえし、この実験を続けることを提議《ていぎ》しますね」
「それはもちろんあたしも同感ですわ」
僕は急に目がまわりだした。僕の頭の上で、があがあ口論をやっているのは、男大学生のトビと女大学生のダリア嬢にちがいない。かねてこの御両人は熱心に人体に残る平衡器官の研究をすすめていたわけだが、両者の説は対立していて正しいか然《しか》らざるか判定がつかないので、遂に両人は僕をホテルのベッドから盗み出して、かの水槽へ入れ、魚のような目にあわしたのに違いない。その揚句《あげく》、乱暴にも僕を溺死させたが、まだそれにあきたらないで僕を
前へ
次へ
全19ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング