のあまり紐《ひも》のついた片眼鏡を眼瞼《まぶた》から下へ落し、「家内を烏天狗に渡さないですむなら勿論結構この上なしですがね、しかしかの脅迫状にはちゃんと断り書がしてありまして気になりますね。つまり家内を渡すのを拒《こば》めば、私はたいへん不愉快な目に遭う――つまり次は私の生命が危険になるんでしょうからね。私の生命が危険となる位なら、寧《むし》ろ家内を渡してやった方が損害は僅少で済みます」
「では、令夫人をお渡しになりますかな」
「いや、飛んでもない。只今は比較の言論をお聞かせしただけのこと。実際においては家内を渡すことは困るです。しかし渡さなければ後がこわい……」
「後がこわくないように私が計らいましょう。ちゃんと相手に令夫人を渡しましょう」
「いや、それでは困る」
「なあに困りゃしません。これはあなた様と私だけの了解事項なんですが、その当日その場で令夫人を渡したように見せかけ、実は令夫人は渡さないのです」
「ふうん。よく分りませんなあ、猫々先生の仰有る言葉の意味がね」
「これが分らんですかなあ。早くいえば、令夫人の身替りを相手へ渡すんです」
「なるほど、家内の身替りをね。ほほう、これは素晴らしい着想だ。遉《さすが》に烏啼天狗専門店の名探偵袋猫々先生だけのことはある」
「叱《し》ッ。大きな声はいけません。……よろしいか、この事は大秘密ですぞ」


     3


 さて十一月十一日の当日、苅谷邸は警官隊で取囲み、ものものしい警戒ぶりであった。
 だが時刻は移っても、怪しい者の姿は一向現われず、見張りの者は少々待ち疲れの態《てい》であった。すると正午のちょっと前、警察の自動車が、一台、表についた。中から現われたのは警視で、二人の警部補を随《したが》えていた。
「やあ。ご苦労じゃ。まだ賊は現われんかね」
「はい。どういうわけか、まだ現われません」
「もう現われる頃じゃ、警戒厳重にな」
「はい」
「苅谷氏に会ってみたい。案内してくれんか」
「はい。どうぞこちらへ……」
 警視と苅谷一家との会見は、頗《すこぶ》る風変りなものだった。警視は、苅谷夫妻に両手をあげるようにお願いし、室内にいる警官たちにも同様の姿勢をとるように強要した。そうして置いて警視の一行は、苅谷夫人繭子の頭から毛布を被《かぶ》せ、玄関先に待たせておいた自動車で搬《はこ》び去ったのである。玄関先にも警官隊が
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