間諜座事件
海野十三
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)其《そ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)公衆電話|傍《そば》ニ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#丸1、1−13−1]
−−
1
これは或るスパイ事件だ。
ところで、これから述べてゆく其《そ》の物語の中には、日本人の名前ばかりが、ズラズラと出てくるのだが、読者諸君は、それ等を悉《ことごと》く真《しん》の日本人だと早合点《はやがてん》されてはいけない。実はその間諜《かんちょう》一味は××人なのである。本来ならば「丸木花作《まるきはなさく》事《こと》本名《ほんみょう》張学霖《ちょうがくりん》は……」といった風に書くのが本当なのであるが、それを一々書くのが、煩《わずらわ》しい程、××人が出てくることであるから、一つ思切《おもいき》って、味噌も糞も悉く日本人名前の方だけを書くことにした。
どうかお読みになっている裡《うち》に、錯覚《さっかく》を起さないようにして戴《いただ》きたいと、お願いして置く。さて――
2
霧の深い夕方だった。
秘密警備隊員の笹枝弦吾《ささえだげんご》は、定《さだ》められた時刻が来たので、同志の帆立介次《ほたてかいじ》と肩を並《なら》べてS公園の脇《わき》をブラリブラリと歩き始めていた。もう冬と名のつく月に入ったのだったが、今夜はそう寒くもなかった。しかしこう霧が降りていては、連絡をとるのに稍《やや》困難を覚《おぼ》えた。その連絡員というのがうまく自分達を探しあてて呉《く》れればいいが……。
「ウーイ、こらさのさッ――てんだ」
向うから酔払《よっぱら》いの声が聞える。顔も姿もまだ見えないが……。
弦吾は肘《ひじ》でチョイと同志帆立の脇腹《わきばら》を突《つつ》いた。
ぬからず帆立が、
「ピ、ピーイ、ピッ……」
とヴァレンシアのメロディーを口笛で吹き始める。
ヒョロヒョロと、向うから人影が現れた。
弦吾はツと帽子を被《かぶ》り直《なお》した。
どおーン。
酔払いが突き当った。
「ヤイ、ヤイ、ヤイッ」酔払いが呶鳴《どな》った。
「つッ突《つ》き当《あた》りやがって、挨拶《あいさつ》をしねえとは何でえ。こッこの棒くい野郎奴《やろうめ》」
「……」
「だッ黙ってるな。いよいよもう、勘弁《かんべん》ならねえ、こッ此《こ》の野郎ッ」
どおーンと突き当ったのはいいが拳固《げんこ》を振《ふ》り下《お》ろすところを、ヒラリと転《か》わされて、
「ぎゃーッ」
と叫ぶと、酔漢《すいかん》は舗道《ほどう》の上に、長くのめった。
弦吾と同志帆立とは、酔漢の頭を飛び越えると足早《あしばや》に猿江《さるえ》の交叉点《こうさてん》の方へ逃げた。
細い横丁を二三度あちこちへ折れて、飛びこんだのはアパートメントとは名ばかりの安宿《やすやど》の、その奥まった一室――彼等の秘密の隠《かく》れ家《が》!
「どうだった?」入口の扉《ドア》にガチャリと鍵をかけると、帆立が云った。
「ウン、これだ」
弦吾は掌《てのひら》を開くと、小形のたばこや[#「たばこや」に傍点]マッチを示した。酔払いから素早く手渡された秘密のマッチ箱だった。小指の尖《さき》で、中身をポンと落しメリメリと外箱《そとばこ》を壊《こわ》して裏をひっくりかえすと、弦吾はポケットから薬壜《くすりびん》を出し、真黄《まっき》な液体をポトリポトリとその上にたらした。果然《かぜん》、見る見る裡《うち》に蟻の匍《は》っているような小文字《こもじ》が、べた一面に浮び出た。
本部からの指令だった!
3
二人は、マッチ箱の裏に書かれた指令文を読み終ると、合《あ》わせていた額《ひたい》を離して、思わず互《たがい》の顔を見合わせた。二人は一語《いちご》も発しない。余程《よほど》重大な指令と見える。
その指令というのは――
[#ここから罫囲み]
(指令本第一九九七八号)
(一)QX30[#「30」は縦中横]トQZ19[#「19」は縦中横]トハ、即刻《そっこく》間諜座《かんちょうざ》ニ赴《おもむ》キ、「レビュー・ガール」の内《うち》ヨリ左眼[#「左眼」に丸傍点]ニ義眼ヲ入レタル少女ヲ探シ出シ、彼女ノ芸名ヲ取調ベ、QZ19[#「19」は縦中横]ハ直《ただ》チニR区裏ノ公衆電話|傍《そば》ニ急行シテ黄色ノ外套《がいとう》ヲ着《ちゃく》セル二人ノ同志ニ之《これ》ヲ報告セヨ。又QX30[#「30」は縦中横]ハ間諜座内ニ其儘《そのまま》止リテ、打出《うちだ》シト共《とも》ニ群衆ニ紛《まぎ》レテ脱出セヨ。
(二)右ノ報告ヲ本日午後十時マデニ報告シ得ザルトキハ、在京《ざいきょう》同志ハ悉《ことごと》ク明朝《みょうちょう》ヲ待タズシテ鏖殺《おうさつ》セラルルコトヲ銘記《めいき》セヨ。
[#ここで罫囲み終わり]
「死線《しせん》は近づいたぞ」
「かねて探していた敵の副司令が判ったというわけだな」
「ウン、義眼を入れたレビュー・ガールとは、うまく化けやがった」
「だが間諜座へ入ることは、地獄の門をくぐるのと同じことだ。固くなったり、驚いたりして発見されまいぞ」
「あのなかは敵の密偵《みってい》で一杯なんだろうな」
「毎夜、観客の中に百人近くの密偵が交《まじ》っているということだ。そして何か秘密の方法で、舞台上《ぶたいうえ》の首領と通信をしているそうだ」
「首領よりか副司令のあの小娘《こむすめ》が恐ろしいのか」
「そうだ。あの小娘は悪魔の生れ代りだ」
「するとあの副司令を今夜のうちに、こっちの手でやッつける手筈《てはず》になったんだな」
「ウン。――どうしてやッつけるかは知らないが、副司令のやつ、義眼を入れてレビュー・ガールに化けているてぇことを、嗅《か》ぎつけられたが運の尽《つ》きだよ。おお、もう五時半だ。あといくらも時間が無いぞ。さア出発だ」
弦吾は腰をあげた。
「おっと待ちな、冷《つめた》いながら酒がある。別れの盃《さかずき》と行こう」
同志帆立は、押入の隅から壜詰を取出した。汚れたコップに、黄色い酒がなみなみとつがれた。
カチャリ、カチャリ。
「地獄で会おうぜ」
「世話になったな」
4
部屋を出ようとするときだった。
ブ、ブ、ブブー。
卓子《テーブル》の裏に取付けたブザーが鳴った。
「ほい。XB4が呼んでいるッ」
弦吾は室内に引返した。壁をポンと開くと嵌《は》めこんだような超短波《ちょうたんぱ》の電話機があった。
「QX30[#「30」は縦中横]だ」
「こっちは、XB4だ」と電話機の彼方《かなた》で小さい声がした「報告があったぞ、いよいよ動員指令が下《くだ》ったそうだな」
「ウン」
「ところで注意を一つ餞別《はなむけ》にする」
「ほほう。ありがとう」
「あの間諜座ね『魚眼《ぎょがん》レンズ』のついた撮影機で、観客一同の顔つきが何時《いつ》でも自由自在にとれるんだそうだ。ぬかりはあるまいが、顔色を変えたり、変にキョロキョロしちゃいかん。皆の笑うところでは笑い、皆が澄《す》ましているときには澄ましていなくちゃいかん。いいかね」
「魚眼レンズを使っているのか? よおし、油断《ゆだん》はしないぞ」
「義眼を入れたレビュー・ガールの名前をつきとめるんだって、誰にも尋《たず》ねちゃ駄目だぞ。敵の密偵《みってい》は巧妙に化けている。立《た》ち処《どころ》に殺されちまうぞ」
「ウン、誰にもきかんで、見付けちまおう」
「見付ける方策《ほうさく》が立っているのか」
「うんにゃ、そういうわけでもないが、プログラムを探偵すれば、何々子という名前がきっと判るよ」
「それで安心した。じゃ別れるぞ。しっかりやれ、同志QX30[#「30」は縦中横]!」
「親切有難うよ」
魚眼レンズで観客全部の顔色を覗《のぞ》いているッて――ちえッ、そんなものに引懸《ひっかけ》られて堪《たま》るものかい!
5
間諜座《かんちょうざ》とは、敵の密偵の夜会場《やかいじょう》なんだから、そういう名で仲間は呼んでいるのだ。本当の座名はディ・ヴァンピエル座!
ディ・ヴァンピエル座第9回公演――と旗が出ている間諜座の前だ。R区は、いつもと、些《ちっ》とも変らぬ雑沓《ざっとう》だった。
しばらくウィンドーの裸ダンスの写真を、涎《よだれ》を垂《た》らさんばかりの顔つきで眺めて――
「さア、お前はどこに決めるんだ」
「俺は断然、この丸花《まるはな》一座を観る」
「じゃ俺もそう決めた。……いいよいいよ、今夜は俺が払うから、委《まか》しとけ」
「イヤ駄目だい。今夜は俺に払わせろ」
「いいんだよオ」
「いけないよォ」
頗《すこぶ》る手際《てぎわ》よく、だらしなくグニャグニャと縺《もつ》れ合《あ》いながら弦吾と同志帆立はプログラム片手にひッつかんだ儘《まま》、嬉しそうに入っていった――だが一皮下は、棒を呑《の》んでいるような気持だった。
明るい舞台では、コメディ「砂丘の家」が始まっていた。
流石《さすが》にカブリツキは遠慮《えんりょ》して、中央の席に坐る。
舞台は花のように賑《にぎや》かだった。
だが、それに引きかえ、観客席のQX30[#「30」は縦中横]は、面《おもて》こそ作り笑いに紛《まぎ》らせているが、胸の裡《うち》は鉛《なまり》を呑んだように憂欝《ゆううつ》に閉《と》ざされていた。そのわけは彼の手に握られたプログラムにあった。
この複雑きわまるプログラムのうちから、義眼を入れたレビュー・ガールの名前を探し出すなんて、如何に無鉄砲《むてっぽう》なことだか、そのプログラムのおもてを一と目見ただけで充分に知れることだった。
同志百七十一人の生命を賭《か》ける死のプログラム!
6
どうか読者諸君も気を鎮《しず》めて、次に示すこのプログラムに共に眼を移して下さい。
―――――――――――――――
プログラム[#「プログラム」は太字]
第三・コメディ・砂丘の家
●ブルターニュ郊外の家[#「●ブルターニュ郊外の家」は太字]
父親 ジャック[#「父親 ジャック」は太字] 松田待三郎 母親 カテリナ[#「母親 カテリナ」は太字] 武中 文子 姉娘 ロジナ[#「姉娘 ロジナ」は太字] 東明 波子 妹娘 マリイ[#「妹娘 マリイ」は太字] 郡家 月子 紳士 ケリー[#「紳士 ケリー」は太字] 田方 青二 青年 フルトン[#「青年 フルトン」は太字] 丸山 彦太 お手伝いさん ロセット[#「お手伝いさん ロセット」は太字] 住吉 景子 店員 アプリン[#「店員 アプリン」は太字] 間宮 林八 近所の娘 アン[#「近所の娘 アン」は太字] 香川 桃代 マーゲリー[#「マーゲリー」は太字] 平河みね子 ドロシー[#「ドロシー」は太字] 小林 翠子 ルイズ[#「ルイズ」は太字] 六条 千春
第四・ダンス・エ・シャンソン
●ダンス(木製《もくせい》の人形)[#「●ダンス(木製《もくせい》の人形)」は太字]
六条 千春 平河みね子 辰巳 鈴子 歌島 定子 柳 ちどり
小林 翠子 香川 桃代 三条 健子 海原真帆子 紅 黄世子
●シャンソン(朝顔《あさがお》の歌)[#「●シャンソン(朝顔《あさがお》の歌)」は太字]
咲田さき子
●ダンス(美《うる》わしの宵《よい》)[#「●ダンス(美《うる》わしの宵《よい》)」は太字]
(唄)花柳 春子 須永 克子 山村 蘭子 杉原 常子
●シャンソン(遥かなるサンタ・ルチア)[#「●シャンソン(遥かなるサンタ・ルチア)」は太字]
須永 克子
●ダンス(オー・ヤヤ)[#「●ダンス(オー・ヤヤ)」は太字]
間宮 林八 花柳 春子 神田 玉子
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング