喰《く》いしばって、喜びの色を押し隠したのだった。
8
弦吾の先走りしたチェックとは別に、先ず「フィナーレ」が開いて、たしかに例の義眼女を発見することが出来た。プログラムの上に※[#丸2、1−13−2]と印をつけた。第二回目の登場という意味であった。
弦吾には、もう幕間《まくあい》もなんにもなかった。唯《ただ》機の至るのが待ちあぐまれるばかりだった。「弥次喜多《やじきた》」が始まって、第一景。一座を率《ひき》いる丸木花作《まるきはなさく》と鴨川布助《かもがわぬのすけ》とが散々《さんざん》観客を笑わせて置いて、定紋《じょうもん》うった幕の内へ入った。
いよいよ第二景。紅黄世子かどうか判ろうという機会が来たのだ。流石《さすが》に胸が迫った。道頓堀《どうとんぼり》行進曲も賑《にぎや》かに、花道からズラリと六人[#「六人」は底本では「八人」]の振袖《ふりそで》美しい舞妓《まいこ》が現れた!
(居ない、居ないぞ)
QX30[#「30」は縦中横]は軽い吐息《といき》をした。
それからプログラムは進む。第四景には、残る柳ちどり[#「柳ちどり」に丸傍点]と海原真帆子[#「海原真帆子」に丸傍点]とが茶店娘《ちゃみせむすめ》となって確かに登場したと思われる。プログラムの上に、彼女の出演の印※[#丸3、1−13−3]を打って置こう。QX30[#「30」は縦中横]は、成功へもう一歩の手前へ立って、ホッとした。振返ってみればよくまァ此の複雑なプログラムから、彼女の名前を拾い出せるようになったものだ。
さて、いよいよ運命の決まる第五景だ。冷静に、冷静に!
山賊邸の展望台。怪しげなる囃《はやし》につれて、一隊の唐子《からこ》が踊りつつ舞台へ上ってきた。
「呀《あ》ッ」
と叫びたいのを懸命で怺《こら》えたQX30[#「30」は縦中横]だった。見よ! 見よ! あの女がいるではないか。敵の副司令が、唐子《からこ》になって、白々《しらじら》しくも踊っているのだ。決った!
副司令の芸名は、柳ちどり[#「柳ちどり」に丸傍点]※[#感嘆符二つ、1−8−75]
弦吾は素早く「柳《やなぎ》ちどり」と名前をプログラムから千切《ちぎ》りとって、隣りにピタリと寄り添っているQZ19[#「19」は縦中横][#「QZ19」は底本では「QX19」]同志|帆立介次《ほたてかいじ》の掌《て》のうちに、ねじこんだ。
帆立はフラリと席を立った。
一つ大きな欠伸《あくび》をすると、ディ・ヴァンピエル座の木戸口を出ていった。レビュー館の向うの角を曲《まが》ると急に歩調を速めて、かねて諜《しめ》し合せて置いたR区裏の二つ並んだ公衆電話函のところへ……。
9
公衆電話室には、既に黄色の外套を着た青年が二人、別々に入って居《お》った。サインを送られたのでQZ19[#「19」は縦中横][#「QZ19」は底本では「QX19」]は直ぐに「柳ちどり」の名前の入った紙片を手渡した。
「すみませんでしたね。まァこっちへ入り給え」黄色い外套を着た同志は云った。
其時《そのとき》この二つの公衆電話の甲乙とも相手のベルが喧《やかま》しく鳴っていた。
甲の方の電話は、一町半ほど先の洋食屋の屋根裏へ繋《つなが》っていた。
「オイ、どうだ」と向うから声がした。
「もう直ぐ出て来るから、うまく演《や》れよ」と、こっちから黄色い外套の同志が稍《やや》震《ふる》え声で云った。興奮に慄《ふる》えているのだった。
「ウン、しっかり演ってみせるぞ。安心せい。相手を確めたら直ぐ報《しら》せろ!」
そういった屋根裏の青年の前には一台の機関銃が壁穴《かべあな》を通して外を覗《のぞ》いている。いつでも引金が引ける、この機関銃の銃口は、向いの高い建物の三階に、ポッカリ開いた窓に向けられている。もっと精確に云うと銃口は、向いの窓の内から見える壁掛《かべかけ》電話機を覘《ねら》っているのだった。――その電話機は、受話器が紐《ひも》のままダラリと下っていた。思うに、電話で呼出された人を探しに行っているものらしい。
五秒、十秒、十五秒。
向うの窓に、一人のレビュー・ガールが現れた。頭が痛いのか、左手で圧《お》さえている。
「はァ、モシモシ」
と、その美しいレビュー・ガールは電話口の前で唇を動かした。
「ああ、もしもし」レビュー・ガールの電話に答えたのは、意外にも区裏の公衆電話の乙の方を占領している黄外套の同志だった。
「もしもし。あんたは、柳ちどりさん?」
同志の声は悠々と落着いている。それもその筈、一方の旗頭UX3鯛地秀夫《たいちひでお》だったから。
「ええ、そうよ」と女が云った。
鯛地秀夫は、ツと手をあげて、隣の公衆電話甲の同志QX7左馬三郎《さまさぶろう》へ合図をした。
(よし、撃て――といえ)
というサインだ。鯛地は豪胆《ごうたん》にも尚も柳ちどりを電話機に釘止《くぎど》めにして置こうと努力した。
「柳ちどりさんに、いいものを進呈――」
撃て、――という命令は、屋根裏の同志の耳に達して、スワと機関銃の引金を引いた。
どどどどどどどど、どどどどどどどッ!
霰《あられ》のような銃丸《じゅうがん》が、真白な煙りをあげて、向いの窓へ――
柳ちどりは、声を立てる遑《いとま》もなく全身を蜂《はち》の巣《す》のように撃ち抜かれ、崩《くず》れるように電話機の下にパタリと倒れた。
「命中したぞォ」
それが同志への最後の報告だった。
次の瞬間に、屋根裏の機関銃手も公衆電話室甲乙の黄外套《きがいとう》も、それから又、同志帆立も、飛鳥《ひちょう》の如く現場から逃げ去った。
恐ろしい暗殺状況《あんさつじょうきょう》だった。
10[#「10」は縦中横]
落ち着かぬ心を、客席に強いて落ち着かせようと努力しているQX30[#「30」は縦中横]の笹枝弦吾だった。
どどどどどどッ。
がたーン。
という異様な物音を余所《よそ》ながら聞いた。
(ウッ、やったな)
第五景「山賊邸展望台」の幕はスルスルと下《お》りた。
舞台裏には異様《いよう》な混乱が起っているようだった。
観客は何事とも知らぬながら、少しずつざわめいてきた。
緞帳《どんちょう》が大きく揺れて、座長の丸木花作が、鬘《かつら》だけ外《はず》した舞台姿のままで現れた。
「皆さん。お静かに願い上げます。唯今《ただいま》女優が一人、急病で亡《な》くなりました。しかしもう事は済みましたから、御安心の上、お仕舞《しまい》までごゆるりと御見物願います。では直ちに第六景、『奈良井遊廓』の幕をあげます」
うわーッと何も知らない観客は拍手した。
座長が引込むと、緞帳は別に何事もなかったかのように、スルスルと上へ昇っていった。そして賑《にぎや》かな囃《はやし》の音につれて、シャン、シャンと鳴る金棒《かなぼう》の音、上手《かみて》から花車《だし》が押し出してきたかのように、花魁道中《おいらんどうちゅう》が練《ね》り出《だ》してきた。
提灯持《ちょうちんも》ちが二人、金棒引《かなぼうひき》が二人、続いて可愛らしい禿《かむろ》が……。
「呀《あ》ッ」
と大声で叫んだのは、客席のQX30[#「30」は縦中横]の弦吾《げんご》だった。
見よ、確かに死んだ筈の義眼の副司令が、真紅な禿《かむろ》の衣裳を着て、行列の中を歩いているのだ。これが驚かずにいられようか。
「シ、しまった!」
と気がついたときは、もう既に遅かった。隣席の五十坂を越したと思う男が、年齢《とし》の割には素晴らしい強力《ごうりき》で、弦吾の利腕《ききうで》をムズと押えた。
「話は判っている筈《はず》だ。さア静かに向うへ来給え」
その一語で、すべては終った。魚眼《ぎょがん》レンズを透《とお》した写真を調べてみるまでもなく、大声をあげたりして、もう明瞭《めいりょう》な失敗をしたQX30[#「30」は縦中横]だった。もう再度《さいど》、生きて此のレビュー館は出られなくなった。
万事《ばんじ》休《きゅう》す!
*
義眼の副司令の女を、柳ちどり[#「柳ちどり」に丸傍点]と思っていたのは笹枝弦吾の惜《お》しい誤解《ごかい》だった。柳ちどりは確かに機関銃で殺された踊り子だった。この柳ちどりは、第五景に出る段になって、急に烈しい頭痛に襲われたのだった。出場は迫《せま》るし、遂《つい》に已《や》むなく副司令が柳ちどりに代って出たわけだった。そこで彼女は柳ちどりと間違えられるようなことになった。次の第六景、「奈良井遊廓」の場で正しい持役《もちやく》で出演したわけだった。柳ちどり[#「柳ちどり」に丸傍点]でなければもう海原真帆子[#「海原真帆子」に丸傍点]に決っている。皆さんは其《そ》の名前が、「禿《かむろ》」という役割の下にあるのを既に御存知《ごぞんじ》の筈《はず》である。
海原真帆子《かいばらまほこ》こそ幸運なる副司令の芸名だった!
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「日曜報知」報知新聞社
1932(昭和7)年11月12日号
※「茶店娘《ちゃみせむすめ》」は底本のプログラムでは「薬屋娘」ですが、底本通りとしました。
入力:土屋隆
校正:田中哲郎
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング