のつもりで貼り出した。名前の横には、彼の勤め先である商会の名も入れて置くことを忘れなかった。
こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであった。しかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。
「あんた、お金持ってないの」
「うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って」
「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、蝋燭《ろうそく》を買わない。今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ」
「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」
「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」
「よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」
もう日暮れ時だった。
二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗《こぐら》い蝋燭を点《とも》して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜《すいか》を十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店――などと、食い物店が多かった。
蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな提灯《ちょうちん》一個八銭とを買った。
「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」
杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと浸《し》みわたった。なんとも譬《たと》えようのない爽快さだった。
彼は更にもう一杯をお代りした。
お千はコップを台の上に置いて、口をつけそうになかった。
「お呑みよ。いい味だ。それに元気がつく」
そういって杜はお千にビールを薦《すす》めた。お千は恐《おそ》る恐《おそ》るコップに口をつけたが、やはりうまかったものと見え、いつの間にかすっかり空けてしまった。しかしもう一杯呑もうとは云わなかった。
三ばいの生ビールが、杜をこの上なく楽しませた。思わない御馳走だった。震災以来の桁ちがいの味覚であった。彼はお千に、では帰ろうと云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお内儀《かみ》にコソコソ耳うちしてそのうしろの御不浄に出かけた。
やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋の態《さま》やら、にごった水の面などが見えなくて、かえってよかった。
橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱《ぼうこう》カタルになったと思うのよ。――」
とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッと慄《ふる》わせた。そして彼に急を訴えると、その場にハタとしゃがんで、堤を切ったような音をたてて用を達した。杜は提灯片手に、その激しい音を聞きながら、あたりに注意を払っていた。――お千は絶対無我の境地にあるような姿勢をしていた。
杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。後生《ごしょう》だから……」
とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びの笑《え》みを浮べ、そしてその後で決ったように大きな溜息をつくのであった。いつもきまってそのようであった。
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて夕炊《ゆうめし》の膳を囲みながらいった。
「ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひと[#「ひと」に傍点]ネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
と問えば、
「いえ、なんでもないの」
と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
杜はどうしてお千に真実《ほんとう》を云わせたものだろうかと、首をひねって考えていた。
「ごめんなさいまし。――」
そのとき門口《かどぐち》に、男の声で、誰か訪《と》う者があった。
「あッ、――」
とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように真紅《まっか》であった。
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔|仕《つかまつ》りまして、なんとも相済みません、ねえ、こちらの御主人さんへ――」
五十男は、不貞不貞《ふてぶて》しい面つきで、ノッソリ中へ入ってきた。
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと仰有《おっしゃ》りますが、実はこのことについて貴公《きこう》に伺いたいのだ」
「なんだとォ――」
と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。貴方《あなた》は、死んだことと思っていたが――」
「ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急に慌《あわ》てだし、
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは性根《しょうね》を据《す》えて返答をしろ、いいかッ」
と云い捨てて、裏の便所の方から、大狼狽《だいろうばい》の態で出ていった。杜はホッと溜息をついた。
お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方に媚《こ》びるような視線を送って、
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町《こうじまち》の殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁《いんねん》をつけに来たのよ。あなた心配しないでネ」
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込《うしごめ》か芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――」
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。
9
お千が、冷たい骸《むくろ》となったのは、その翌日のことだった――。
その日、杜は会社へ出たが、戦争のように忙しい仕事の中にいて、ともすれば仕事をまるで忘れてしまうことがあった。彼はなにかの隙があったら、お千と一緒に住む家を、焼け残った牛込か芝かに求めたいものだと焦《あ》せっていた。だが彼の希望は、あとからあとへと押しよせてくる会社の仕事によって、完全に押し潰《つぶ》されてしまった。しかもその日は、夕方になっても仕事の段落がつかず、遂に会社を出たのが夜更の十時だった。会社に泊ってゆけという上役や同僚たちの薦《すす》めであったけれど、彼はそれをふり切るようにして、懐中電灯片手に、お千の待っている家路に急いだのであった。
帰りついたのは、かれこれ十一時であったろうか――。
駈け足も同然に、バラックの幕を押しわけて家のうちに飛びこんだ杜は、その場にハッと立ち竦《すく》んだ。そこに海軍毛布を被って寝ていると思ったお千の姿が見えないのであった。寝床はそこに敷《しき》っ放《ぱな》しになっていたが、藻《も》ぬけの殻《から》だった。しかし毛布は、人間の身体が入っていたことを証明するかのように、トンネル形にふくれていた。枕は土間にとんでいた。
「お千、オイお千、――」
杜は女の名を呼びながら、厠《かわや》を明けてみた。だがそこにもお千の姿はなかった。
「――とうとう、お千のやつ、逃げてしまったんだな」
杜は悲しみと憤《いきどお》りとに、胸がはり裂けんばかりになってきた。考えてみれば無理のない話でもあった。昔世話になった五十男といえば、ひと通《とおり》やふた通でない深い情交であったに違いない。杜とはほんの僅かなことで結びついただけであった。ことに震災というものがどこまで深刻なものやら判らなかった時代に、彼はお千から大いに頼られたのであって、震災もここに二十四日、惨禍《さんか》は大きかったけれど、もうそれにもいつしか慣れてしまって、始めの大袈裟《おおげさ》な恐怖や不安がすこし恥かしくなる頃であった。そういう時にお千が杜のところを飛び出していったのは一向不自然ではないと思った――。
彼はゴロリと横になった。
ミチミの顔が不図《ふと》浮んできた。それはどこやらすねているような顔だった。
(ミチミはどうしているだろうか。いまごろは、やはりこうしたバラックの中で、あの長身の青年の腕に抱かれて睡っているだろうか?)
などと、しきりにミチミのことが思い出された。お千|失踪《しっそう》の夜に、お千のことよりもミチミのことが想いだされるのはどうしたことであろう。それは杜自身が極めて心の弱い人間であって、悲哀に対して正面から衝突してゆく勇気がないために、その悲哀を紛らすための妥協的代償を他に求めたがるのに外ならなかった。
杜は夢から夢を見た。ただ暗い床のうえに横《よこた》わっているだけのことでうつらうつらとしていた。何度目かに目が覚めたとき、トタン板の裂け目から暁の光りがほんのりと白く差しこんでいるのに気がついた。
彼は改めて寝床のまわりを見廻した。もしやお千の姿がそこに帰ってきていはしないかと思ったが、それは空しき夢であった。彼女の寝床は、昨夜のとおり藻ぬけの殻であった。
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