ただ彼は、枕許《まくらもと》に近い土間の上に、昨夜発見しなかったものを見出した。いや、それは発見はしたのであろうがつい気がつかなかったのであろう。それは見慣れない莨《たばこ》の吸《す》い殻《がら》だった。――その莨は「敷島!」
杜は「ゴールデンバット」ばかり吸っていた。敷島は絶対に吸わなかった。お千も吸わない。
「敷島」の吸殻は三つほどあった。取りあげてみるとそこへ捨てて間もないように見えるものだった。
もう一つの「敷島」の吸殻を発見した。それは土間の中に堅く埋まっていた。土間の上はなにかを引摺ったように縦の方向に何本もの条溝《すじ》がついていた。いま発見した吸殻はその下に埋まっていたのである。
土間の上の何本もの条溝は何のためについたのであろう。今朝がたは、こんなものを見なかったことは確かだ。
杜はこの条溝の伸びている方向に目をやった。その条溝は裏口の幕の下に続いて、まだそこから外に伸びているようであった。杜はそれをボンヤリ見つめていたが、そのうち起き上って土間に下り、裏口の幕を掻き分《わ》けて何気なく外を見た。
そのとき彼は、実に不思議な光景を見た。
裏口の正面に、焼けて坊主になり、幹だけ残った大樹があった。そこに人間が青い脚をブランとして垂れて下っているのであった。それが暁の光を浴びて、なんとなく神々《こうごう》しい姿に見えた。――お千が死んでいる。
杜は、わりあいに愕かなかった。ただしそれはほんの最初のうちだけであったけれど。
「お千が死んでいる。――お千はなぜ死んだのであろう?」
杜は裏口に立って、ボンヤリ死体を見上げていた。
よくよく見ていると、お千の首にまきついている縄は、焼けた大樹の地上から八、九尺もある木の股のところに懸っていた。縄はそこでお仕舞いになってはいず、股のところから大樹の向う側にずっと長く斜に引き張られているのではないか。縄の末端は、大樹の向う三間ほど先にある手水鉢《ちょうずばち》の台のような飛び出た巌《いわお》の胸中に固く縛りつけられてあった。
「ああ、これは自殺じゃないんだ!」
杜はハッと顔色をかえた。
自殺の縊死《いし》だと思っていたのが、縄の引っ張ってある具合から、これは他殺でないと出来ないことだと気がついた彼はにわかに恐怖を感じた。お千は殺されたのだ。疑いなく彼女は暴力によって此処に釣り下げられたのである。
誰だ? お千を殺したのは?
杜はだんだんと周章《あわ》てだした。
さあ大変である。すくなくとも、彼自身は容疑者の一人として、警察署に連行されるであろう。自分はなにかヘマをやっていないであろうか。待てよ――。
杜は、裏口の幕をはねのけるようにして、小屋のなかに飛びこんだ。
彼はそこに今の今まで自分が横わっていた寝床を見た。その隣にはお千の空虚《くうきょ》の寝床《ねどこ》があった。これはいけないと思って、彼は前後の見境もなく、今まで寝ていた自分の寝床を畳んで横の方に近づけた。
そのとき、寝床の下の蓙《むしろ》の上に、ポツンと赤黒い血の痕がついているのを発見して、彼は驚愕を二倍にした。毛布にも附着しているだろうと思って改めてみると、幸いなことにほんの僅かついているだけだった。彼はそこのところの毛を一生懸命で※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》った。
蓙の上の血痕をそのまま放置しておくことは、彼の弱い心が許さなかった。彼はナイフを出して、その血痕の周囲を蓙のまま四角に切りとった。
毛布の血痕と、蓙に赤黒く固まりついている血痕とは捨てては危険である。彼は咄嗟《とっさ》に、その二つの証拠品を、マッチ函の中に収《しま》った。これで血の脅威からは脱れることができた。
もう何か残っていないかと、あたりを見廻した。
「おお、これァ何だッ」
妙なものがお千の寝床の向う側に落ちていた。拾いあげてみると、それは古風な縫い刺し細工の煙草入であった。彼は急いで中を明けてみた。中には口切煙草が沢山入っていた。その煙草は「敷島」だった。
「ああ『敷島』だ。――」
胸躍らせながら、彼は中に残っている煙草の数を数えた。丁度十六本ある。
十六本の「敷島」――そして土間に落ちている四本の「敷島」の吸殻!
これ等は、杜が事件に対して嫌疑薄《けんぎうす》であることを証明してくれるであろうと思ったので、そのまま放置して置くことにした。彼は煙草入れを、また元のように、お千の寝床の傍に抛《ほう》りだした。
だが、この煙草入れの持ち主は、誰であろうか?
夜がすっかり明け放れた。
戸外は大きな叫び声がしている。誰か通行人が、お千の死体を見つけたのだろう。杜は外に出たものか、小屋の中に待っていたものかと思案に暮れたが、どうしても小屋の中にジッとして居られずになった。それで裏口の幕を押し開いて、集まってきた朝起きの人たちと同じく、お千のブランコ死体の下に馳けつけた。
急報によって警官の出張があり、杜は真先に警官の手に逮捕せられた。
警官が後から後へと何人もやってきた。背広服の検事や予審判事の姿も現れた。現場の写真が撮影されると、お千の死体は始めて下に下ろされた。
「死後十時間ぐらい経っていますネ」と裁判医が首を傾げながら云った「ですからまず昨夜の八時前後となりますネ」
杜は、さんざんばら係官に引摺《ひきず》りまわされた上で、警察署に連行されることとなった。
10[#「10」は縦中横]
「ただ、正直に凡《すべ》てを話して下さい。僕達がこうして君に詳しく聞くのも、結局君の無罪なる点をハッキリして置きたいためです」
と、係の検事は穏《おだや》かに云った。
杜はそれが手だと思わぬでもなかったけれど、適当に検事の温情に心服したような態度を示しながら、出来るだけ詳しい話をした。しかしマッチの函の中に収めた血痕のことだけは、とうとう云わなかった。なにしろそのマッチの函を某所に隠してしまったので、もしその隠し場所などを喋《しゃべ》ったとなると、杜のやり方に不審をいだかれるは必定であり、それから更に面白くない嫌疑を募《つの》らせてはたまらないと思ったので、血痕のことだけは云わないことにした。それは検察官のために、一つの貴重なる断罪資料を失うことになるけれども、ここに至っては、もうどうにも仕様がなかった。
「――前日に来たこの五十男は何という名前だって」
と検事は鉛筆をなめなめ杜に聞いた。
「たしか麹町の殿様半次とか云っていました」
「ええっ、殿様半次だと、――」
と警官連は半次の仕業と知ると、云いあわせたように仰天《ぎょうてん》した。
「――つまりこの女の情夫である麹町の殿様半次が一番怪しいということになる。半次ならやりかねないだろう」
重大なるお尋ね者である半次は、天には勝てず、旧《ふる》い友達のバラックに潜伏しているところを捕《とら》えられた。
それから取調べが始まった。
半次の前には、例の口付《くちつき》煙草入れと、土間から拾い上げた吸殻四個とが並べられた。
彼のアリバイは、彼の当初の声明を裏切って、遂に立証すべき何ものも見つからず、遂に彼は恐れ入ってしまった。
事件は次のように審理された。
すなわち半次は、当日お千をまた尋ねて、昔の如き情交を迫り、遂に目的を達したことは、お千の死体解剖によって明白である。
しかれどもお千は、今後の情交を拒絶し、もし強《しい》てそれを云うようであれば、半次の旧悪の数々とともに、彼の居所をその筋へ密告するからと脅迫したところから、半次は今はもうこれまでなりと思い、お千をくびり殺したものである――というのである。
これに反して、杜のアリバイは確実であった。なにしろその日はずっと会社に居り、そして会社の門を外に出たのが午後十時だというから、お千の死に無関係であることが証明された。
半次はお千殺しを頑強に否認しつづけたが、遂に観念したものか、とうとうそれを白状してしまった。係官はホッと息をついた。そしてやがて、半次を公判に懸ける準備に急いだのだった。
杜はずっと早く釈放せられて、思い出のバラックに、只一人起き伏しする身とはなった。
静夜《せいや》、床のなかにひとり目覚めると、彼は自分の心臓がよく激しい動悸をうっているのを発見することがあった。そういうときには、きっとお千の最期《さいご》について何か追っ懸けられるような恐ろしい夢を見ていた。
或る夢では、杜自身が犯人であって、お千を殺した顛末《てんまつ》を検事の口から痛烈に論告されているところを夢見た。また或るときには、何者とも知れない覆面の人物が犯人となっていて、その疑問の犯人から彼が責《せ》め訶《さいな》まれて苦しくてたまらないところを夢見たりした。前者の場合よりも、後者の一方の夢がずっと恐ろしかった。
恐ろしい夢から覚めた彼は、きまって寝床のなかにいて、今度は現実にお千殺しの顛末を考え直すのであった。――果して半次がお千を殺した真犯人であろうか!
敷島の吸殻といい、煙草入れといい、それからまたあの前日の会見の捨《す》て台辞《ぜりふ》といい、半次の日常生活といい、十六貫もあろうというお千の身体を大木に吊り下げたといい、半次を真犯人と断定する材料は決して少くなかった。それにも拘《かかわ》らず、杜はなんとなく半次が真犯人でないような気がしてならなかった。
(どうしてそんな風に思うんだろう?)
杜は自分の心の隅々を綿密に探してみるのであった。別にこれこれと思うものも見当らないのだ。だがそのうちに、もしかするとこれかも知れないと思うことがあった。それは、あの事件の後で、杜が現場に落ちていた血痕を拭《ぬぐ》って一つの証拠を湮滅《いんめつ》し、それからまた毛布についていた血痕の部分を鋏《はさみ》で切り取ってマッチ函のなかに収め、同じく証拠湮滅を図ったことである。その血痕が直接に犯人を指しているというのではないが、啻《ただ》そのような証拠を隠滅した行動それ自体が杜には後悔され、そして予審が終結したのにも拘らず、その結末が彼だけには信じられないのであった。それはたしかにこの世ながらの地獄の一つだと、杜は感じたことである。
あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。
11[#「11」は縦中横]
それは事件があってから、もう一ヶ月に垂《なんな》んとする頃の出来ごとだった。
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌を展《ひろ》げて読み耽《ふけ》っていた。そのとき表の方にあたって、
「今晩は――」
という若い女の声を耳にして、ハッと愕《おどろ》いた。事件以来、それは最初に彼に呼びかけた女の声であるかもしれない。
「だ、誰です。――」
彼は恐《おそ》る恐《おそ》る席を立って、表の戸を開いてみた。
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
杜にはそれが何人であるかは大凡《おおよそ》気がつかぬでもなかったが、ついそう聞きかえさずにはいられなかった。激しい興奮が、いまや彼の全身を駆けめぐり始めたからだ。
「あたしよォ。――ミチミ」
ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上で睨《にら》み合って別れ、それからずっとこの方《かた》彼女を見なかった。とうとうミチミは彼の前に現れた。昔に変らぬ純な、そして朗かなミチミであるように見えた。
「おおミチミ。――さあお上り」
その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い単衣《ひとえ》を着、そしてその上に青い帯を締めていた。
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に貴郎《あなた》のことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ」
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔が
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング