。二人は全く夫婦心中者に見られてしまったらしい。
杜はお千の背中を抱いたまま、不思議に自然に、その場の気分になっていた。が、そのとき不図《ふと》頭を廻して横を向いたとき、彼は卒倒せんばかりに愕《おどろ》いた。――
「おお、ミチミ――」
ミチミが生きていた。ミチミは彼のすぐ傍にいた。僅か一本の太い鉄管を距《へだ》てて、その向うにいた。鉄管の上に両手をのせてジーッと二人を見詰めていた。すべてを彼女は見ていたのだろうか。
ミチミの顔は真青だった。
ミチミは手拭《てぬぐい》を、カルメンのように頭髪の上に被って、その端を長くたらしていた。そして見覚えのある単衣《ひとえ》を着ていた。それは九月一日、彼と一緒に家を出て、電車どおりにゆくまでにしげしげ見た見覚えのある模様の単衣だった。そしてその単衣の襟は茶褐色に汚れ、そのはだけた襟の間からは、砂埃りに色のついた――だがムッチリした可愛いい胸の膨《ふく》らみが、すこしばかり覗《のぞ》いていた。ミチミも随分苦労したらしい。
「ミチミ――」
と、杜はお千を引離して駆けよろうとしたが、この時お千はまた両腕を彼の頸にまわして、力まかせにぶら下ってきた。離すどころの騒ぎではなかった。
ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、
「莫迦――」
と只一言。叩きつけるように云った。
「これミチミ、何をいうんだ――」
ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった。
その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向って錐《きり》のように鋭い嫌悪《けんお》の眼眸《がんぼう》を強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分の逞《たくま》しい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。
「――さあ行こう、ミチミ」
男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け橋梁《はし》の上を浅草側に向って立ち去るのであった。
「ミチミ――」
杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったらしい。あの颯爽《さっそう》たる青年、見るからに文化教育をうけたらしいスッキリした東京ッ児――それが百年も前からミチミを恋人にしていたような態度で「ミチミ、ミチミ!」と呼んでいるのだった。ああ万事休す矣。また何という深刻な宿命なのだろう。お千と自分との無様《ぶざま》な色模様を見せたのも宿命なら、いまさらこんなところでミチミに会ったのも宿命だった。
ミチミは頬を膨らまし、背中を向けて向うへいってしまった。杜には、あれがいつものミチミなのだろうかと疑ったほど、彼女の身体はあか[#「あか」に傍点]の他人のように見えた。お互に理解し合うことはありながら、こうなっては、たとえ何から何までうちあけても、その一部とて信用されないかもしれない。それほど致命的なこの場の破局だった。杜は痛心を圧《おさ》えることができないままに、それからズンズン一人で歩きだした。
橋桁を渡って、本所区へ――
そして彼は当途《あてど》もなく何処までもズンズン歩いていった。まるで天狗に憑《つ》かれた風《ふう》のように速く――。
7
「よう、あんたァ、――」
と、お千が追いすがるようにして、後方《うしろ》から声をかけた。
「……」
杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった。
「よう、何処まで行くのさあ。――」
それでも彼は黙って歩みつづけた。
するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。
「こんな方へ来てどうするの。柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」
でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、
「チョッ」と舌打をし、彼の腕を邪険《じゃけん》にふり解《ほど》いた。
「なんだい、面白くもない。黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネ。あんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃない。お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった。嫌いも嫌いも大嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ。飛んだ思いちがいさ。大河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ。意気地なしの、大甘野郎の、女たらしの……」
お千はまた興奮して、地団太《じだんだ》を踏み、往来の砂埃《すなぼこり》をしきりと立てていた。
杜は後向きになって、じっと足を停めていた。
「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ。――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」
そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見た。お千は不意を喰らって狼狽《ろうばい》し、開《あ》きかけた口を持て余し気味にただ大きな息を呑んだ。
杜はツカツカとお千の方に寄っていった。彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった。
「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」
「ええッ。――」
「意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」
杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした。杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解する遑《いとま》もなく引張られていった。手首は骨がポキンと折れてしまいそうに痛んだ。その痛みが、彼女の身体に、奇妙な或る満足感に似たものを与えた。お千は引摺《ひきず》られるようにして、でも嬉しくもなさそうに眼を細くして、杜の云いなり放題にドンドン引張られていった。杜は柳島までも行かなかった。丁度《ちょうど》吾妻橋と被服廠跡との丁度中間ほどにある原庭町《はらにわちょう》の広い焼け野原のところ――といっても町名は明かではなく、どこからどこまでも区切のない茫漠《ぼうばく》たる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど――この原庭と思われる辺に来て、杜は不図《ふと》足を停めた。
「この辺がよかろう」
杜は誰に云うともなくそう云った。
側《かたわ》らには小さな溝が、流れもしないドロンとした水を湛《たた》えている。それから太い大樹の無惨な焼け残りが、まるで陸に上った海坊主のような恰好をして突立っている。なんだか気味のわるい不吉な形だった。すこしばかりこんもりと盛り上った土塊《どかい》や、水の一滴もない凹《くぼ》み、それから黒くくすんでいる飛石らしいのが向うへ続いて、賑《にぎや》かに崩れた煉瓦塀のところまで達している。どうやら此処は、誰かの邸宅の庭園だったところらしい。
杜は怪訝《けげん》な顔つきをしているお千の方に振りかえった。
「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」
杜は手をふって、お千に命令を下した。
お千は杜の権幕《けんまく》に愕《おどろ》いて、命令に服従した。そして邸跡にトタン板を探しはじめた。
「オイ、早くしろ。腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」
お千は目を瞠《みは》って、釣っていた左の手を下ろした。
トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められた。つづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた。
そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした。――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった。
二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた。
欲しいものは、なるべく大きな板切れと、なるべく広い布《きれ》であった。それにつづいて蓆《むしろ》か綿か、さもなければ濡れた畳であった。
二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ罹災者《りさいしゃ》あての配給品が集まってくるところの方に、物資が豊かであることに気がついた。それは多くは橋の袂《たもと》とか、町角《まちかど》とかに在った。
欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった。一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。
でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まった。そのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。
二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、筵《むしろ》を敷いた。その上に藁《わら》を載せた。どうやら寝床のようなものが出来た。
まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった。途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。
二人はだいたい睨《にら》み合って、無言の業をつづけていたが、疲労から睡魔の手へ、彼等はなにがなんだか分らないうちに横にたおれて前後不覚に睡ってしまった。
次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた。
杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがった。そして下駄をつっかけると、天井の低い土間に突立《つった》って、物珍らしそうに小屋のうちを眺めまわした。お千がなんとなく嬉しそうにニコリと微笑《ほほえ》んだのを、杜は薄眼の中から見のがさなかった。
お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えた。なんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品物を抱えていた。
「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ。林檎《りんご》もあるわ。缶詰に、ハミガキに、それから慰問袋もあんたの分とあたしの分と二つあるわよ。――さあ起きなさいよォ」
お千はすっかり機嫌を直していた。
配給品が時の氏神《うじがみ》であった。二人はそれを並べて幾度も手にとりあげては、顔を見合わせて笑った。
「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネ。あたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」
お千はいい潮時《しおどき》を外さず、愧《は》ずかしそうに素直に謝った。
「うん、なァに、なんでもないさ。――」
杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云った。その優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身の侘《わび》しい心を打った。彼はなんだか熱いものが眼の奥から湧いてくるのを、グッと嚥《の》みこんだ。
8
昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた。
ちょっとした煮物の出来る竈《かまど》も出来たし、ミカン函を改造して机兼チャブ台も作った。裏手には、お千のために、往来からは見えないように眼かくしをした軽便厠《けいべんがわや》をこしらえた。入口には、杜の名をボール函の真に書いて表札
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