に、彼の方に寄ってきたのであった。
 杜は睡りもやらず、痛がるお千の腕をソッと持っていてやった。――
(お千は、あのことを思っているのじゃあるまいな)
 杜の耳朶《みみたぶ》が、不意に赤くなった。
 お千はいつの間にか、彼の左側にピタリと寄りそって歩いていた。
「手は痛みますか。――」
 と、彼は今までにないやさしい声で尋ねてみた。
「すこしは薄らいだようでござんす」
 お千はニッコリ笑った。
 浅草橋から駒形《こまがた》へ出、そして吾妻橋《あづまばし》のかたわらを過ぎて、とうとう彼等の愛の巣のある山の宿に入った。所はかわれども、荒涼たる焼野原の景は一向かわらずであった。
 ただ見覚えのある石造り交番が立っていたので、彼が今どの辺に立っているかの見当がついた。
 交番の中はすっかり焼けつくしたものと見え、窓外の石壁には、焔のあとがくろぐろと上《うわ》ひろがりにクッキリとついていた。中には何があるのか、その前には四、五人の罹災者《りさいしゃ》が、熱心に覗きこんでいた。そのうちの一人が、列を離れて、杜の方に近づきざま、
「――ねえ、可愛そうに女学生ですよ。袴をはいたまま、死んでいますよ」
 といって、うしろを指した。
「えッ、アー女学生が――」
 瞬間、彼の目の前は急にくらくなった。
(ミチミよ、なぜ僕は一直線におまえのところへ帰ってこなかったんだろう!)
 彼は心の中で、ミチミの霊にわび言をくりかえした。
 杜はそこで勇猛心をふるい起すのに骨を折った。どうして見ないですむわけのものではなかった。彼はいくたびか躊躇をした末に、とうとう思いきって、交番の中をこわごわ覗きこんだ。
 黒い飾りのある靴、焼け焦げになった袴、ニュッと伸ばした黄色い腕、生きているようにクワッと開いている眼――だが、なんという幸いだろう。その惨死している女学生はミチミではなかった。
「ああ、よかった。――」
 彼は両手を空の方へウンとつきだして、その言葉をいくどもくりかえした。
 だが、愛の巣のあったと思うところには、赤ちゃけた焼灰ばかりがあって、まだ冷めきらぬほとぼりが、無性《むしょう》に彼の心をかき乱した。
 そのなかに、もしやミチミの骨が――と思って、焼けた鉄棒のさきで、そこらを掻きまわしてみたが、人骨らしいものは出てこなかった。ミチミは何処かへ、難をさけたのであろう。
 立て札もなければ、あたりに見知り越しの近所の人も見えない。
 彼はこの上、どうしてよいのか分らなかった。
 ――が、考えた末、焼け鉄棒を焼け灰のなかに立てると、それに彼の名刺をつきさした。名刺の上には、「無事。明三日正午、観音堂前ニテ待ツ。松島房子ドノ」と書いたが、また思いかえして、それに並べて、「小山ミチミ殿」と書き足した。
 お千は、この一伍一什《いちぶしじゅう》を、黙々として、ただ気の毒そうに眺めていた。
「家族はまだ、焼け跡へはかえって来てないらしい。――じゃ、こんどはいよいよ、あんたの家の方へ行ってみよう」
 杜はそういって、そこを立ち去りかねているお千をうながした。
 それから二人は、焼け落ちた吾妻橋の上を手を繋《つな》いで、川向うへ渡った。橋桁《はしげた》の上にも、死骸がいくつも転がっていた。下を見ると、赤土ににごった大川の水面に、土左衛門がプカプカ浮んでいた。その数は三、四十――いやもっともっと夥《おびただ》しかった。
 こうなると、人間というものは瀬戸物づくりの人形よりも脆《もろ》いものであった。
 さて川岸づたいに、お千の住んでいた緑町の方へいってみた。惨状は聞いたよりも何十倍何百倍もひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていた。これに聞くと、緑町|界隈《かいわい》の人間はみな被服廠《ひふくしょう》で死に、生命をたすかったのは自分をはじめ、せいぜい十名たらずであろう――などといった。
 被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない。――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった。
「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだ。おお、これからどうしたらいいだろう」
 両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏を誦《じゅ》した。
 こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった。二十五の若い男と、三十二の大年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。
 二人は、いろいろなところに泊った。
 興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた。
 毎日毎日、宿泊所の朝が来ると、二人は連れだってそこを出た。それから杜は、ミチミと房子との二重の名のついた「尋ね人」の旆《はた》を担いで、避難民の固まっているバラックをそれからそれへと訪ねていった。お千は、まだ癒《なお》りきらぬ左の腕に繃帯を巻いたまま、どこまでも杜の後につき随《したが》って行った。
 そうして九月一日から数えて、十二日というものを、無駄に過ごした。杜の心は、だんだん暗くなっていった。それと反対に、お千の気持はだんだん落ちつきを取りかえし、日増しに元気になって、古女房のように杜の身のまわりを世話した。
 それは丁度九月十三日のことであった。
 杜はいつものように、お千をともなって、朝早くバラックを出た。その日はカラリと晴れた上天気で、陽はカンカンと焼金《やきがね》くさい復興市街の上を照らしていた。杜は途中にして、ミチミの名を書いた旆を、宿に置き忘れてきたことに気がついた。しかしいまさら引返すほどのこともないと思った。でもそのときは、まさかそれが、泣いても泣ききれぬ深刻なる皮肉で彼を迎えようとは、神ならぬ身の気づくよしもなかった。
 その日、図《はか》らずも彼は、もう死んだものとばかり思っていたミチミに、バッタリ行き逢ったのである。


     6


 所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。
 まるで轢死人《れきしにん》の両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど不様《ぶざま》な橋の有様だった。十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を危かしい人通りが、いくぶんか賑《にぎ》やかになっているだけの違いだった。
 杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていた。なにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜は肥《ふと》り肉《じし》の凡《およ》そこうした活溌な運動には経験のないお千に、この危かしい橋渡りをやらせるのにかなり骨を折らねばならなかった。
「さあ、この手につかまって――」
 と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ橋梁《きょうりょう》の間から下を見て、まだそこにプカプカしている土左衛門や、橋の礎石の空処に全身真赤に焼け爛《ただ》れて死んでいる惨死者の死体を見るのであった。すると両足がすくんでしまって、もう一歩も前進ができず、ただもうブルブルと慄《ふる》えながら、太い鉄管にかじりつく外《ほか》なかった。
 それは震災の日の緊張が、この辺ですこし弛《ゆる》んだため、さきには気がつかずに通りすぎたものが、ここでは、急にヒシヒシと彼女の恐怖心をあおったものだろう。――杜は仕方なく、そういうとこで、この大の女を背負うか、或いは両手でその重い身体を抱くかし、壊れた橋桁の上を渡ってゆくしかなかった。それはたいへん他人が見て気になる光景だったけれど、この際どうにも仕方がなかった。さもないとお千は川の中へボチャンと落ちてしまうにきまっている。
 ことに始末のわるいことは、この場になってお千が意識的に杜にしなだれ懸《かか》ることだった。彼女としては、恩人でもあり、またこの上ない情念の対象である彼に対して、せめてこういうときでも露骨《ろこつ》にしなだれかかるより外、彼女の気の慰められる機会はなかったからでもあった。それほど杜という男は、彼女にしてみればスパナーのように冷たく、そして焦《じ》れったい朴念仁《ぼくねんじん》であった。
「これ、そう顔を近づけちゃ、前方《まえ》が見えなくて、危いじゃないですか。一緒に河の中へおっこちてしまいますよ」
「ウフフフ……」とお千はヒステリックに笑った。そして、わざと唇を彼の耳朶《じだ》のところに押しつけて「あたしネ、本当はお前さんとこの橋から下におっこちたいのよ、ウフフフ」
 といって、太い両足を子供かなにかのようにバタバタさせるのであった。
「危い危い。冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――」
「いやよいやよ。お前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう邪怪《じゃけん》なんでしょうネ。いいわ、あたしゃ、ここで死んじゃうわよ、もちろんお前さんを道づれにして――」
「こーれ、危いというのに。第一、みっともない――」
 といったが、お千はもうすっかり興奮してしまって、そこが人通の多いところであることも、白昼であることにも、もう弁《わきま》えがないように見えた。杜の頸を巻いている彼女の腕がいきなりグッと締るかと思うと、最前から彼の耳朶に押しあてられていた熱い唇が横に移動して彼の頬の方から、はては彼の唇の方へ廻ってくる気勢《きせい》を示した。杜は近よってくるお千の生ぐさい唇の臭《におい》を嗅いだ。あわてて顔を横に向けようとしたが彼の頸動脈は、お千のためにあまりにも強く締めつけられていた。そのためになんだか頭がボーッとしてきた。
「あぶないッ――これ止せッ」
「これ、生命を粗末にするなッ」
 突然大きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた。――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちを支《ささ》えていてくれることに気がついた。
「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。
「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネ。しかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気を大きく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」
「そうだそうだ」と別の声が云った。
「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけた。しかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだ。しかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけない。ねえ、貴郎《あなた》がた――さあお内儀《かみ》さんも元気を出して、下りて歩きなせえよ」
 要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って本当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった。不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災の大きなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、莫迦莫迦《ばかばか》しいことではあったけれども――。
 お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人の薦《すす》めるとおりに、下に下りた。しかし彼女はいきなりワーッと大きな声をあげると、杜の胸に顔を埋めて泣きつづけた。
「可哀想に――。無理もねえや。妙齢《としごろ》の女が桐の箪笥ごと晴着をみな焼いちまって、たったよれよれの浴衣一枚になってしまったんだからなァ」
 と、同情の声が傍から聞えた
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