きがやって来た。いままでは、まだ大丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白い蕨《わらび》のような煙が、幾条《いくすじ》となくスーッスーッと立ちのぼり始めた。手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。
「あッ、火がついた。この家に火がついた。――ああ、手がぬけない。焼け死ぬッ」
女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自分で自分の腕を引張った。
「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」
女は大きな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れた。と、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。
「ねえ、あんた。思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた。刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥ。さもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」
明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうった。そうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと紅蓮《ぐれん》の舌が見えだした。杜は女の肩に手をかけた。
「そうだ、お内儀《かみ》さん。いまが生きるか死ぬかの境目だッ。生命を助かりたいんなら、どんな痛みでも怺《こら》えるんだよ」
女はもう口が利けなかった。その代り彼の方を向いて大きくうち肯《うなず》き、自由な片手を立てて、彼の方をいくども拝むのであった。
杜はその瞬間、天地の間に蟠《わだか》まるあらゆるものを忘れてしまった。ただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。
彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めた。そして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。
「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」
「なむあみだぶつ――」
と、女は両眼を閉じた。
やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!
首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れた。しかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった。
「おお、――」
女の手首の皮が手袋をぬいだように裏返しに指先から放れもやらずブラ下っているのであった。皮を剥ぎとられた部分は、鶏の肝臓のように赤むけだった。
杜は気絶をせんばかりに愕いたが、ここでひっくりかえってはと、歯をくいしばって耐《こら》えた。そして素早く、そのグニャリと垂れ下った女の手の皮を握ると、手袋を嵌《は》めるあの要領でスポリと逆にしごいた。それは意外にもうまく行って、手の皮は元どおりに手首に嵌《はま》った。しかし手首のすこし上に一寸ほどの皮の切れ目が出来て、いくら逆になであげても、そこがうまく合わなかった。――でも女の命は遂に助かったのだ。
気がつくと、女は気絶していた。
なにか手首に捲《ま》かなければならないが、繃帯などがあろう筈がない。ハンカチーフも駄目だ。そのときふと目についたのは、この女の膚につけている白地に青い水草を散らした模様の湯巻だった。杜は咄嗟《とっさ》にそれをピリピリとひき裂くと、赤爛《あかただ》れになっている女の手首の上に幾重にも捲いてやった。
5
杜がトラックを下りると、お千も突然、あたしも下りると云いだした。
それは翌九月二日の午前六時のこと。場所は、東京の真中新橋の上にちがいないのであるが、満目ただ荒涼たる一面の焼け野原で、わずかに橋があって「しんばし」の文字が読めるから、これが銀座の入口であることが分るというまことに変り果てた帝都の姿だった。
「お内儀《かみ》さんは、上野までのせていってもらったら、いいのに……」
と、杜は女に云った。
「じゃあ早く乗っとくれ。ぐずぐずしていると其処へ置いてゆくぜ」
と、満載した材木の蔭から、砂埃《すなぼこり》でまっくろになった運転手の顔が覗《のぞ》いた。
「ええ、あたし、此処でいいのよ。運転手さん、どうもすまなかったわねえ」
運転手はあっさり手をあげると、ガソリンの臭気を後にのこして、車を走らせていった。
「じゃ僕も、ここで失敬しますよ」
杜はカンカン帽のつばに、指をかけた。
女は狼狽《ろうばい》の色を示した。
「待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい」
「困るなァ。僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ大急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ」
女は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、
「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた本所《ほんじょ》の緑町《みどりちょう》はすっかり焼けてしまったうえに、町内の人たちは、みな被服廠《ひふくしょう》へ避難したところが、ひどい旋風に遭って、十万人もが残らず死んでしまったといいますからネ。あたしそんな恐ろしいところへ、とても一人では行けやしませんわ」
杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろう。しかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。
「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよ。しかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」
「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」
とつけて、ポロポロと泪《なみだ》を落とした。
杜は先に立って歩きだした。女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた。
杜は焼け土の上を履《ふ》んで、丸の内有楽町にあった会社を探した。
すると不幸なことに、会社は、跡片もなく灰塵《かいじん》に帰していた。そしてその跡には、道々に見てきたような立退先の立て札一つ建っていなかった。
やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト被存候《ぞんぜられそうろう》」と報告を書きつけた。それをすぐ目に映るようにと、玄関跡と覚《おぼ》しきあたりに焼け煉瓦を置き、その上に名刺を赤い五寸|釘《くぎ》でさしとおし焼け煉瓦の割れ目へ突きたてようとしたが、割れ目が見つからない。
「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」
後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた。
「すいません」
といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。
杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした。――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで骸骨《がいこつ》のような恰好をしていた。消防自動車らしいのが、踏みつぶされた蟇《がま》のようにグシャリとなっていた。溝のなかには馬が丸々としたお臀《しり》だけを高々とあげて死んでいた。そうかと思うと、町角に焼けトタン板が重ねてあって、その裾から惨死者と見え、火ぶくれになった太い脚がニョッキリ出ていた。お千はそれを見ると悲鳴をあげて、彼の洋服をつかんだ。
杜は、胸のなかでフフフと笑った。この女とても、自分が通りかからねば、あのようなあさましい姿になっていた筈だのに、それを怖がるとはなんということだろう、と。
彼はふたたび焼野原の銀座通へ出て、それからドンドン日本橋の方へ歩いていった。おどろいたことに、正面に見たこともない青々とした森が見えたが、これがよく考えてみると、上野の森にちがいなかった。なにしろこの辺は目を遮《さえぎ》るものとてなんにもないのであった。――ああ今頃、ミチミはどうしているだろう。
「さあ、接待だ、遠慮なく持っていって下さい」
と、路傍の天幕《てんまく》から、勇ましい声がした。
杜がその方をみると、向う鉢巻に、クレップシャツという風体の店員らしいのが飛び出して来て、
「さあ、腹を拵《こしら》えとかにゃ損ですよ。――お握飯をあげましょう。手をお出しなさい。奥さんの分とともに、三つあげましょう。すこし半端だけれどネ」
そういって若い男は、杜の手の上に、大きな握飯を三つ載せた。
奥さん?
杜はハッとしたが、それが後からついてくる人妻お千のことだと思うと、擽《くすぐ》られるような気がした。
杜は、そこをすこし通りすぎたところで、お千の方をふりかえった。そして彼女の手に握飯を一つ載せ、それからまた考えて、もう一つをさしだした。
女はそれを固辞《こじ》した。杜は自分はいいからぜひ喰べろとすすめた。女はあたしこそいいから、あなたぜひにおあがりといって辞退した。杜はこの太った女が、腹を減らしていないわけはないと思って、無理やりに握飯を彼女の手の上に置いた。すると握飯はハッと思うまに、地上に落ちて、泥にまみれた。
女はそれを見ると、急に青くなって、腰をかがめて、落ちた握飯を拾いあげようとした。彼は愕いて、女を留めた。
女は杜の顔を見た。女の眼には、泪がいっぱい、溜っていた。
「――すみません。あたしが気が利かないで。――」
「なァに、そんなもの、なんでもありゃしない」
杜はまた先に立って、焼野原の間を歩きだした。
(どうも、困った女だ)
と、彼は心の中で溜息をついた。この分では、この年増女房は、どこまでも彼の後をくっついて来そうに思われた。なぜ彼女は、どこかへ行ってしまわないんだろう。
彼女が臆病なせいだろうか。一家が焼け死んだと思っているからだろうか。それとも彼が倒壊した棟木の下から手首を抜いてやって、彼女の一命を助けてやったためだろうか。
そんなことが、何だというのだ。
そのとき杜は、昨夜の出来ごとを思いだした。昨夜彼は、この女を護って、野毛山《のげやま》のバラックに泊った。女は、例の手をしきりに痛がっていたので、そこにあった救護所で手当を受けさせた。その後でも女は、なおも苦痛を訴え、そして熱さえ出てきた様子であった。彼は到底《とうてい》このままにはして置けぬと思ったので、救護所の人に、どこか寝られるところはないかと尋ねた。すると、それならこの裏山にあるバラックへ行けと教えられた。
彼は女につきそって、バラックに入れられた。そこには多勢の男女が居て、後から分ったところによると、家族づれの宿泊所だった。バラックとは名ばかり、下に柱をくんで、畳が四、五枚並べてあった。天井は、立てば必ず頭をうちつけるトタン板であった。
彼は思いがけなく、畳の上にゴロリと横になることができた。但し畳の上といっても、狭い三尺の方に身体を横たえるので、頭と脚とが外にはみ出すのであった。それでも女はたいへん喜んで、すぐ横になった。
ところが、避難民が、あとからあとへと入ってくるのであった。だから始めは離れていたお千との距離が、前後からだんだんと押しつめられてきた。そして遂に、お千の身体とピッタリくっついてしまった。
それでもまだ後から避難民が入ってきた。
「さあ、皆さん、お互《たがい》さまです。仰向きになって寝ないで、身体を横にして寝て下さい。一人でも余計に寝てもらいたいですから」
窮屈な号令が掛った。そして係員らしいのが、皆の寝像《ねぞう》を調べに入ってきた。やむを得ず、畳の上の人たちは、塩煎餅《しおせんべい》をかえすように、身体を横に立てた。
「もっとピッタリ寄って下さい。夜露にぬれる人のことを思って、隙をつくらないようにして下さいよ」
お千は遠慮して、向うを向いていたが、もうたまりかねて闇の中に寝がえりを打ち、杜の方に向き直った。そして彼女は、乳房をさがし求める幼児のよう
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