ぜられた。
 そのとき杜は、死にものぐるいで立ち上った。こんなところに、ぐずぐずしていては、いつどき煉瓦壁に押しつぶされるか分ったものではない。
 彼はズキズキ痛む脚を引き摺って、それでも五、六歩は走ったであろう。すると運わるく石塊に躓《つまず》いた。そして呀《あ》ッという間もなく、身体は巴投《ともえな》げをくったように丁度一廻転してドタンと石畳の上に抛《ほう》りだされた。
 大崩壊の起ったのは、実にその直後のことだった。大地を掘りかえすような物凄い音響と鳴動とに続き、嵐のような土煙のなかに、彼の身体は包まれてしまった。彼は生きた心地もなく、石油の空き缶を頭の上から被ったまま身体を丸く縮めて、落ちてくる石塊の当るにまかせていた。
 暫くしてあたりが鎮まった様子なので、彼はこわごわ石油の空き函のなかから首をあげてみた。すると愕いたことには、今の今まで、そこにあった地上五十尺の高さを持った大倉庫は跡片もなく崩れ落ちて、そのかわりに思いがけなく野毛《のげ》の山が見えるのであった。ああ、倉庫の中にいた人たちは、どうしたであろうか。彼のために、外国から到着した機械の荷を探すために、奥の方へ入っていった税関吏は、いま何処に居るのであろうか。恐らく倉庫のなかにいた百人にちかい人間が、目の前に崩れ落ちた煉瓦魂の下に埋まっているはずであった。気がついてみると身近には彼と同じように、奇蹟的に一命を助かったらしい四、五人の税関吏や仲仕の姿が目にうつった。彼等はまるで魂を奪われた人間のように、崩れた倉庫跡に向きあって呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。――
 気がいくぶん落ちついてくるとともに、杜は先《ま》ずいまの地震が、彼の記憶の中にない物凄い大地震だったことを認識した。次に、倉庫が潰《つぶ》れて、その下敷になった輸入機械は、すくなくとも三分の二は損傷をうけているだろう、この報告を早く本社にして、善後処置についての指令を仰ぐことが必要だと思った。
 彼はすぐ電話をかけたいと思った。それで税関の構内を縫って、どこか電話機のありそうなところはないかと走りだした。
 荷物検査所の中に電話機が見つかった。貸して貰うように頼んだところ、この電話機は壊れてしまって役にたたないという挨拶だった。
 彼は検査所の電話機が故障である話を聞いても、まだ目下の重大なる事態をハッキリ認識する力がなかった。かならず東京へ電話が通ずるつもりの彼は、万国橋《ばんこくばし》を渡ったところに自働電話函が立っているのを見つけて、そのなかに飛びこんだ。だが受話器をとりあげて、交換手をいくら呼び出してみても、ウンともスンとも云わなかった。
「これは困った。電話が通じない。電話局は電源を切られたのにちがいない」
 彼は仕方なく駅の方へ行ってみることにした。
 万国橋通を本町《ほんちょう》の方へ、何気《なにげ》なくスタスタ歩きだした彼はものの十歩も歩かないうちに、ハッと顔色をかえた。ああなんという無残な光景が、前面に展開されていたことだろう。
 まず、目についたのは、恐ろしいアスファルト路面の亀裂《きれつ》だ。落ちこめば、まず腰のあたりまで嵌《はま》ってしまうであろう。
 その凄《すさま》じい亀裂の上に、電線が反吐《へど》をはいたように入り乱れて地面を匍《は》っていて[#「匍《は》っていて」は底本では「葡《は》っていて」]、足の踏みこみようもない。ただ電柱が酔払いのように、あっちでもこっちでも寝ている。
 もっと恐ろしいものが目にうつった。すぐ傍の二階家が、往来の方に向ってお辞儀をしていた。大きな屋根が地面に衝突して、ところどころ屋根瓦が禿《はげ》たように剥がれている。四五人の男女がその上にのぼって、メリメリと屋根をこわしている。――「このなかに、家族が三人生埋めになっています。どうか皆さんお手を貸して下さい。浜の家」
 三人が生き埋めに?
 杜は、これは手を貸してやらずばなるまいと思った。四、五人の力では、この潰れた大きな屋根が、どうなるものか。
 と、突然向うの通りに、叫喚《きょうかん》が起った。人が暴れだしたのかと思ってよく見ると、これは警官だった。
「オイ火事だ。これは、大きくなる。オイ皆、手を貸してくれッ」
 どこでも手を貸せであった。見ると火の手らしい黄色い煙が、横丁の方から、静かに流れてきた。
「オイ火事はこっちだッ」
「いや、向うだよ」
「いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった」
「おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ」
 誰も彼もが、土色の顔をして、右往左往していた。悲鳴と叫喚とが、ひっきりなしに聞えてきた。大きな荷物を担いで走る者がある。頭部に白い繃帯をまいた男を、細君らしいのが背負って駈けだしてゆく。
 杜ははじめて事態の極めて重大なることを察した。これは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう。彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。
「おおミチミはどうしたろう。この思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」
 そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした。


     4


 杜《もり》がお千《せん》に行き会ったのは、同じ九月一日の午後四時ころだった。場所は横浜市の北を占める高島町の或る露地、そこに提灯屋の一棟がもろに倒壊していて、その梁《はり》の下にお千はヒイヒイ泣き叫んでいた。
 なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだ。しかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった。
 彼は二時間あまりも改札口で待ち呆《ぼう》けをくわされたであろう。駄目と分って、彼は大憤慨《だいふんがい》の態《てい》でそこを出たが、なにぶんにも天災地変のことであり、人力《じんりょく》ではどうすることもできなかった。
 このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡大の模様が、あきらかに看取された。ぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重大決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない。
 杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた。仕方なく彼は火に追われて右往左往する魂宙《こんちゅう》の人々をつかまえては、東京の方角を教えてもらった。
 それは方角を教えてもらうだけで十分であった。近道大通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無理だったから。倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が焔々《えんえん》と燃えているのに気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった。
 その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く無人境《むじんきょう》にひとしかった。杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。
 なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも嚥《の》みこめるときがきた。向いの廂《ひさし》の間から黄竜《こうりゅう》が吐きだすような厭《いや》な煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、火床《ひどこ》を開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼は俄《にわか》に高熱と呼吸《いき》ぐるしさとに締つけられるように感じた。彼はゴホンゴホンと立てつづけに咳《せき》をした。眼瞼《まぶた》をしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ。
 彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
 人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
 女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を舐《な》めているその切れ目のところに、うつぶせになって喚《わめ》いていた。丸髷《まるまげ》の根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい明石縮《あかしちぢみ》の粋な単衣《ひとえ》を着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった。
「どうしたの、お内儀《かみ》さん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払って、杜の顔を下から見あげた。
「ああッ、た、助けてえ。お、拝《おが》みます」
 女は躍《と》びかかるような姿勢で、杜の方に、身体をねじ向けた。青白い蝋の塊のような肉づきのいい胸元に、水色の半襟のついた膚襦袢《はだじゅばん》がからみついていた。
「手、手、手だ。手を抜いてください」
 女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の膃肭臍《おっとせい》のように身悶えした。眉を青々と剃りおとした女の眼は、提灯のように大きかった。
 杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこも障《さわ》りがないようではあるが、只一つ、左の手首が、倒れた棟木《むねぎ》の下に入っていて、これがどうしても抜けないのであった。
 彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。
「いた、た、た、たたッ。――」
 と女は錐《きり》でもむような悲鳴をあげた。
 杜は愕いて、手を放した。
 女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。
「待って、待って。……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」
 杜は、またそこに跼《しゃが》んで、棟木の下に隠れている女の手首を改めた。なんだか下は硬そうであるが、とにかくその下を掘り始めた。
「だ、駄目よ。手の下には、かね[#「かね」に傍点]のついた敷居があるのよ。掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」
 なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきた。たしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った。女はまた前のように、魂切《たまぎ》れるような悲鳴をあげた。
「駄目だ。これは抜けない」
「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」
「え、本心とは」
「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから千切《ちぎ》れてもいいんです。あたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや」
 女はオロオロと泣きだした。すべすべとした両頬に泪《なみだ》がとめどもなく流れ落ちる。
 そのとき運命を決める最後のと
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