るわよォ、折角|結《ゆ》ったのにィ――」
女は両袖をパッと左右に開いて、男の前によそ行きの顔をしてみせた。
「どう、あなたァ、――」
男は、女の束髪《そくはつ》すがたを、目をまるくしてみつめていた。
「あんたってば、無口なひと[#「ひと」に傍点]ネ」
「いや、感きわまって、声が出ない」
男は両手を拡げた。
女はその手を払うようにして、男の肩を押した。
「さあ連れてってよ、早く早く」
若い二人は、身体を重ねあわせるようにして、狭い階段をトントンと下に下りていった。
そこには蚊取り線香を手にした下のお内儀《かみ》がたっていた。
「おばさん、ちょっと出掛けます」
「あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――。いいわねえ」
「おばさん、留守をお願いしてよ」
「あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわ。さあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな」
「まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくて。ホホホホ」
房子は顔を真赤にして、下のお内儀の前を駈けぬけるように玄関へとびだしていった。お内儀の目には、房子の夏帯の赤いいろが、いつまでも残っていた。そして誰にいうともなく、
「ほんとに女の子って、化け物だわネ」
といった。
松島準一と房子とは、京橋で下りた。そこには大きいビルディングがあって、そこの二階ではキャフェ・テリアといって自分で西洋料理をアルミニュームの盆の上に載せてはこぶというセルフ・サーヴィスの食堂があった。二人は離れ小島のような隅っこのテーブルを占領して、同じ献立の食べ物を見くらべてたのしそうに笑った。
「ミチミ、お美味《いし》いかい」
「ええ、とってもお美味いの。このお料理には、どこか故郷の臭《におい》がするのよ。なぜでしょう」
「ほう、なぜだろう。――セロリの香りじゃない」
「ああセロリ。ああそうネ。先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ」
「また云ったネ。――今夜かえってからお処刑《しおき》だよ」
「アラ、あたし、先生ていいました? ほんと? ごめんなさいネ。でもあなたがミチミなどと仰有《おっしゃ》るからよ」
「ミチミはいいけれど、先生はいけないよ」
「まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの大好きなのよ。いいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお杜《もり》先生。先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ」
「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお処刑《しおき》を覚悟しておいで」
ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキの片《きれ》を頬ばったまま、長い吐息《といき》をついた。
「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」
ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにして囁《ささや》いた。
「またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ」
「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!」
「これミチミ、およしよ」
「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。明礬《みょうばん》をとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリ滲《にじ》んできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ。僕はいま、シャーロック・ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠あり。さればその証拠だに見落さず、これを辿《たど》りて、正しき源《みなもと》を極《きわ》むるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――」
「もういいよ。そのくらいで……」
「僕は鬼神《きじん》のような冷徹さでもって、ミチミの身体を嚥《の》んだ空虚《から》の棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、灼《や》けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と雫《しずく》、溜っている凝血《ぎょうけつ》だった。――おかしいわネ。そのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ」
「棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」
ミチミはテーブルの上に肘《ひじ》をついて、その上に可愛い顎《あご》をチョンと載せた。
「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」
「そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」
「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」
「ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち」
男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。
女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわした。そしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ・テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、呆然《ぼうぜん》と二人の様子に見とれていた。
3
明くれば九月一日だった。
「いよいよきょうから二学期だわ。――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」
ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいた。そして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白い脛《すね》に薄地の黒いストッキングをはいた。
杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた。玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。
ミチミは、すこし後《おく》れて家から出てきた。二人は停留場の方へブラブラと歩きだした。彼は、ミチミの方を振りかえった。彼女は目だたぬほどの薄化粧をして、薄く眉をひいていた。それはどこからみても十七歳の女学生にしか見えなかった。彼女は、杜《もり》に見られるのを恥かしがり、頬をわざと膨《ふく》らまし、そして横目でグッと彼の方を睨《にら》んだ。杜にはそれがこの上もなく美しく、そしてこの上もなくいとしく見えて、ミチミの方へ身体を摺《す》りよせていった。
「ああ、また――」
ミチミは、低声《ていせい》でそう叫ぶなり、彼とは反対の方角に身を移した。彼女はいつでも、そうした。ミチミが袴をはいて学校に通うとき、杜は一度として彼女と肩を並べて歩くのに成功したことがなかった。
「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよ。だからもっと傍へおよりよ」
彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、
「あら嘘よ。ピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」
といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。
二人は停留所で、勤め人や学生たちに交《まじ》って、電車を待った。杜はちょくちょくミチミに話しかけたけれど、ミチミはいつも生返事ばかりしていた。これがゆうべ、あのように興奮して、彼のふところに泣きあかしたミチミと同じミチミだろうか。
向うの角を曲って、電車が近づいてきた。
杜は強い肘《ひじ》を張ってミチミのために乗降口の前に道をあけてやった。ミチミは黙って、踏段をあがった。そのとき彼はミチミのストッキングに小さい丸い破れ穴がポツンと明いていてそこから、彼女の生白い皮膚がのぞいているのを発見した。
杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった。
やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた。
ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、
「兄さん、いってらっしゃい」
と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな声をかけた。しかし、愕《おどろ》いたことに、ミチミの声に反して彼女の眼には泪《なみだ》が一ぱい溜っていた。
「大丈夫。気をつけて行くんだよ」
彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をした。そして屈托《くったく》のなさそうな顔をして、乗客に肩を押されながら、電車を下りた。――
それが女学生姿のミチミの見納《みおさ》めだったのだ。そのときはそんなことはちっとも知らなかった。もしそれと知っていたら、どんな仕事があったとしてもどうして彼女の傍を離れることができたであろう。
そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった。彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだった。しかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、大学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである。
午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった。
杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった。
九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の大震災に遭った。
そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の大奇蹟だった。あの最初の大動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した。
大地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように土砂《どしゃ》が落ちてくるのが見えた。危い。その勢いでは、アーチをくぐった途端に、上からドッと煉瓦の魂が崩れおちてきそうだった。しかし彼は一瞬間もひるまず、函を両手でしっかり掴んだまま、アーチの下をくぐりぬけた。
すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった。同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい。膝頭に灼《や》きつくような疼痛《とうつう》が感
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