って、杜の顔を下から見あげた。
「ああッ、た、助けてえ。お、拝《おが》みます」
 女は躍《と》びかかるような姿勢で、杜の方に、身体をねじ向けた。青白い蝋の塊のような肉づきのいい胸元に、水色の半襟のついた膚襦袢《はだじゅばん》がからみついていた。
「手、手、手だ。手を抜いてください」
 女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の膃肭臍《おっとせい》のように身悶えした。眉を青々と剃りおとした女の眼は、提灯のように大きかった。
 杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこも障《さわ》りがないようではあるが、只一つ、左の手首が、倒れた棟木《むねぎ》の下に入っていて、これがどうしても抜けないのであった。
 彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。
「いた、た、た、たたッ。――」
 と女は錐《きり》でもむような悲鳴をあげた。
 杜は愕いて、手を放した。
 女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。
「待って、待って。……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」
 杜は、またそこに跼《しゃが》んで、棟木の下に隠れている女の手首を改めた。なんだか下は硬そうであるが、とにかくその下を掘り始めた。
「だ、駄目よ。手の下には、かね[#「かね」に傍点]のついた敷居があるのよ。掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」
 なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきた。たしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った。女はまた前のように、魂切《たまぎ》れるような悲鳴をあげた。
「駄目だ。これは抜けない」
「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」
「え、本心とは」
「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから千切《ちぎ》れてもいいんです。あたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや」
 女はオロオロと泣きだした。すべすべとした両頬に泪《なみだ》がとめどもなく流れ落ちる。
 そのとき運命を決める最後のときがやって来た。いままでは、まだ大丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白い蕨《わらび》のような煙が、幾条《いくすじ》となくスーッスーッと立ちのぼり始めた。手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。
「あッ、火がついた。この家に火がついた。――ああ、手がぬけない。焼け死ぬッ」
 女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自分で自分の腕を引張った。
「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」
 女は大きな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れた。と、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。
「ねえ、あんた。思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた。刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥ。さもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」
 明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうった。そうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと紅蓮《ぐれん》の舌が見えだした。杜は女の肩に手をかけた。
「そうだ、お内儀《かみ》さん。いまが生きるか死ぬかの境目だッ。生命を助かりたいんなら、どんな痛みでも怺《こら》えるんだよ」
 女はもう口が利けなかった。その代り彼の方を向いて大きくうち肯《うなず》き、自由な片手を立てて、彼の方をいくども拝むのであった。
 杜はその瞬間、天地の間に蟠《わだか》まるあらゆるものを忘れてしまった。ただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。
 彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めた。そして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。
「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」
「なむあみだぶつ――」
 と、女は両眼を閉じた。
 やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!
 首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れた。しかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった。
「おお、――」
 女
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