じめて事態の極めて重大なることを察した。これは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう。彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。
「おおミチミはどうしたろう。この思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」
 そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした。


     4


 杜《もり》がお千《せん》に行き会ったのは、同じ九月一日の午後四時ころだった。場所は横浜市の北を占める高島町の或る露地、そこに提灯屋の一棟がもろに倒壊していて、その梁《はり》の下にお千はヒイヒイ泣き叫んでいた。
 なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだ。しかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった。
 彼は二時間あまりも改札口で待ち呆《ぼう》けをくわされたであろう。駄目と分って、彼は大憤慨《だいふんがい》の態《てい》でそこを出たが、なにぶんにも天災地変のことであり、人力《じんりょく》ではどうすることもできなかった。
 このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡大の模様が、あきらかに看取された。ぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重大決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない。
 杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた。仕方なく彼は火に追われて右往左往する魂宙《こんちゅう》の人々をつかまえては、東京の方角を教えてもらった。
 それは方角を教えてもらうだけで十分であった。近道大通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無理だったから。倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が焔々《えんえん》と燃えているのに気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった。
 その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く無人境《むじんきょう》にひとしかった。杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。
 なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも嚥《の》みこめるときがきた。向いの廂《ひさし》の間から黄竜《こうりゅう》が吐きだすような厭《いや》な煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、火床《ひどこ》を開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼は俄《にわか》に高熱と呼吸《いき》ぐるしさとに締つけられるように感じた。彼はゴホンゴホンと立てつづけに咳《せき》をした。眼瞼《まぶた》をしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ。
 彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
 人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
 女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を舐《な》めているその切れ目のところに、うつぶせになって喚《わめ》いていた。丸髷《まるまげ》の根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい明石縮《あかしちぢみ》の粋な単衣《ひとえ》を着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった。
「どうしたの、お内儀《かみ》さん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払
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