は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、
「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた本所《ほんじょ》の緑町《みどりちょう》はすっかり焼けてしまったうえに、町内の人たちは、みな被服廠《ひふくしょう》へ避難したところが、ひどい旋風に遭って、十万人もが残らず死んでしまったといいますからネ。あたしそんな恐ろしいところへ、とても一人では行けやしませんわ」
杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろう。しかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。
「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよ。しかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」
「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」
とつけて、ポロポロと泪《なみだ》を落とした。
杜は先に立って歩きだした。女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた。
杜は焼け土の上を履《ふ》んで、丸の内有楽町にあった会社を探した。
すると不幸なことに、会社は、跡片もなく灰塵《かいじん》に帰していた。そしてその跡には、道々に見てきたような立退先の立て札一つ建っていなかった。
やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト被存候《ぞんぜられそうろう》」と報告を書きつけた。それをすぐ目に映るようにと、玄関跡と覚《おぼ》しきあたりに焼け煉瓦を置き、その上に名刺を赤い五寸|釘《くぎ》でさしとおし焼け煉瓦の割れ目へ突きたてようとしたが、割れ目が見つからない。
「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」
後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた。
「すいません」
といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。
杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした。――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで骸骨《がいこつ》のような恰好をしていた。消防自動車らしいのが、踏みつ
前へ
次へ
全47ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング