下において血腥《ちなまぐさ》き事件でもございませんでしたでしょうか」
臼井は錐《きり》のように鋭く問い迫る。
「昨夜は極《きわ》めて静穏《せいおん》でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜《しんや》池袋駅|停《どま》りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」
「えっ、鞄と仰有《おっしゃ》いましたか」
「ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」
「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」
「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」
「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は確《たし》か本年六十五歳になられる老体《ろうたい》なんですからね」
「それはお気の毒」
と課長はいって、事件引継簿を書類|函《ばこ》の既決《きけつ》の函の中へ、ばさりと投げ入れた。
仔猫《こねこ》の怪《かい》
面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。
「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」
「粗茶《そちゃ》ですが、どうぞ」
少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと薦《すす》めたわけだ。
「ああ結構です」と臼井は香《か》のない茶に咽喉《のど》を湿《しめ》し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫《こねこ》のお話をしましょう」
「仔猫?」
「そうです。猫の子ですなあ」
課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに耐《た》えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出《かけだ》した。
「猫の子がどうしたというんです」
「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」
「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」
「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又《ねこまた》を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕《おどろ》きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、宙《ちゅう》にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」
「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井《てんじょう》から紐《ひも》でぶら下げてでもあったのですか」
「そんなことなら、僕はきゃッなどと恥《はず》かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上《つりあ》げられているのでもなく、宙にふわふわと……」
「それは本当の猫じゃないのでしょう」
「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛《はらかけ》をしていましたがね」
「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」
「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」
「それは魔法かな、奇術《きじゅつ》かな」
「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」
「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」
田鍋課長は、先刻《せんこく》とすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促《さいそく》した。
「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」
「うーむ」
課長は呻《うな》った。わが命令を出すのは極めて容易《ようい》であるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でもの嗤《わら》いにならないであろうかどうかを心配した。
課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。
「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や――写真があれば更にいいですね――それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜を図《はか》るでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」
そういわれれば誰でも
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