面会の終《おわり》へ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。
臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端《とたん》に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又《かつまた》習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。
だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命の下《もと》にあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。
その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、
“――前記姓名|未詳《みしょう》の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、該《がい》要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる鬘《かつら》を被《かむ》り居たることを発見せるに因《よ》る。尚《なお》、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手《ハンドル》を備《そな》え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる外《ほか》めぼしきものも、手懸《てがか》りとなるものも見当らず。
一方、前記要保護人は、収容後十時間を経《へ》るも未だ覚醒《かくせい》せず、体温三十五度五分、脈搏《みゃくはく》五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。――”
とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢《とし》がちょうど博士と合うので、損《そん》と思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。
研究生すみれ嬢
臼井は、ぼんくらではなかったと見え、その足ですぐ目白署を訪ねている。
やっぱり、赤見沢博士であった。
彼は署の電話を借りて、とりあえず目賀野に知らせた。目賀野は愕《おどろ》いて、すぐ博士を引取りに行くからといった。
それから一時間ほどして、目賀野は医師やら博士の姪《めい》の秋元千草という麗人《れいじん》や博士の助手の仙波学士を伴い、自動車で駆けつけた。そして一札《いっさつ》を入れ、人事不省《じんじふせい》の博士と遺留《いりゅう》の鞄《かばん》とを内容物もろとも引取っていったのであった。
博士を護って、一行は目黒《めぐろ》行人坂の博士邸へ入った。
雑用係の川北老夫妻と、研究生小山すみれ嬢とがびっくりして博士の帰邸を迎えた。
目賀野の指図《さしず》で、臼井は出迎えた人々を掴《つかま》えて話をした。
「わしは存じて居りましたでがす」と川北老はいった。「先生さまが変装なすって、そっとお出懸《でか》けになるところを確《たし》かに見て居りました。はい、トランクをお持ちになっていましたなあ。おお、このトランクに違いありません。色といい形といい大きさといい……。先生さまは外出なされるとき必ず若い男になってお出懸けなさるんで、これは昨夜にかぎったことではございません。そのこみ入った理由《わけ》はわし如き者に分ろうはずはございません。お出懸け先でございますか、それは全く存じません。先生さまは、爺《じい》や、これからどこへ行ってくるぞなどと仰有《おっしゃ》るお方じゃございませんもんな。……坂をのぼって目黒駅の方へお出でなさったことだけは間違いねえでがす」
博士の昨夜の行動について喋《しゃべ》ったのはこの川北老だけであった。他の妻君のお綱婆さんも、小山研究嬢も、共になんにも語らなかった。
臼井は、目賀野の指図で、もう一つの重大申入れを留守番の人々に行った。
「実は、僕はこの前からしばしばこちらへ伺って博士に或る物の御製作をお願いしてあったんだ。昨日はその出来上ったものを僕の許《もと》へお届け下さるお約束の日だった。博士はこのトランクに入れて、僕のところへ向われたんだが、その途中であのような病態《びょうたい》となられた……」
そういっているときに、目賀野が連れていた医師が入って来て、博士の容態《ようだい》について報告した。目下|麻痺《まひ》症状がつづいている。その原因は不明である。しかし急変はないと思うから、当分このままにそっと寝かして置くがよろしく、次第によって明日か明後日から滋養浣腸《じようかんちょう》などを始めることにしたいというのだった。目賀野は目くばせをして、医師をこの部屋から去らせた。そして臼井
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