の腰の上を肘《ひじ》でついた。
「……そこでですね」と臼井は小山研究生と川北老夫妻へ気ぜわしく話しかけた。「このトランクとその中身とを、僕に預けていただきたいんですがなあ。もちろん博士が意識を回復されればそのとき改めて博士に申入れるつもりですが、それまでのところを、僕に預けておいて頂きたい。そしてかねがねその代償として博士にお支払いすることになっていた金十万円也を、今ここに置いて参りますから、それならあなた方も承諾して下されやすいと思う。ね、いいでしょう」
 そういって臼井は、十万円の紙幣束《さつたば》を三人の方へ差出した。三人は鶏《とり》のようにびっくりして、隅《すみ》へ固まって相談をはじめた。
 やがて相談がまとまったと見え、三人は臼井の方へ戻って来た。川北老が代表者となって折衝《せっしょう》の任に就《つ》くものと見えた。果然彼は発言した。
「とりあえずわしら留守番の者が相談ぶったんですが、その大金はお預りしますまい。その代り品物の何と何とを持って行かれるか、その品目を書いた借用証を一札入れていって下せえ。小山さんもそういわっしゃるだ」
 臼井の眼が小山すみれ嬢の方へ動いた。すみれ嬢は猫のように大きな目をじっと据《す》えて、臼井の顔を睨《にら》みかえした。
「承知しました。そうしましょう」臼井は目賀野の信号によって、そのように返事をした。それから小机の上に紙を延べて借用証を書き始めたが、その品目を書くについてトランクをあける必要にぶつかった。開いて中を見せれば、すみれ嬢の大きい目は臼井の脳髄を突き刺してしまうだろう。彼は、そうした。
「ええー、よくごらん下さい」
 すみれ嬢は、トランクの中を嘗《な》めんばかりにして入念《にゅうねん》に改めた。彼女が用を終って顔をあげたのを見ると、その面《おもて》にはほっとした色があった。
「よくごらんになりましたね。品書は、一つトランク、一つ木材四本、一つ新聞紙|若干《じゃっかん》、以上――でいいですね」
 すみれ嬢が川北老に目配せをしたので、川北老が、「はい。それでようがす」
 と返事をした。
 臼井は記名|捺印《なついん》をして、その預り証を川北老に手渡した。川北老はそれをすみれ嬢に見せ、嬢がうなずくと、それを八つに畳《たた》んで、胸のポケットに収《しま》って釦《ボタン》をかけた。
 取引は終った。
 目賀野と臼井は挨拶をして、玄関を出た。待たせてあった自動車の中には、さっき活躍した医師と、若い男女が各一人待っていた。その若い男女は、さっき目白署において、博士の姪の秋元千草と博士の助手たる仙波学士と名乗った二人であったが、この二人はこのさわぎを他処《よそ》に自動車を下りもせず、ぽかんとしていた。それもその筈、実は両人は博士の姪でもなく助手でもなく、目賀野が便宜《べんぎ》上連れて来た脇役の人物であったのだ。その便宜とは、もちろん署から疑いを持たれることなしに、博士と鞄とを引取ることにあった。
 こうなると目賀野という人物は、なかなか油断のならない重要人物であることが知れて来るが、彼の本来の面目は次の章に於《おい》て一層よく知れよう。


   秘密地下室


 省線|田端《たばた》駅を下りて西側に入り、すぐ右手の丘をのぼり切るとそこに目賀野邸があった。
 鞄を護衛した目賀野たちの自動車が、邸内に滑《すべ》りこんだ。
 玄関にとびだして来た書生が三名。自動車の扉が明いて、ぴょんととび下りたは目賀野であった。
「さあ、こっちへ寄越せ」
 と、目賀野が伸ばす手に、車内から続いて現われた臼井が例の鞄を手渡す。
「おい臼井。お前だけ、わしについて来い。外の奴は、邸のまわりを厳重に警戒して居《お》れ」
 目賀野はそういいすてて、鞄を大事に片手にぶら下げて、どんどん奥へ入っていった。臼井は遅れまいと、そのあとを追う。
 自動車から最後に下りた草枝と千田が、顔を見合わせてにやりと笑った。二人は連れ立って、別の小玄関から上にあがった。
 目賀野は、廊下をどんどん鳴らして、奥へ奥へと入っていった。一等奥に、洋間があった。彼はポケットから鍵束を出して鍵を探していたが、やがてその一つを鍵穴に入れて廻した。
 重い扉は、始めて開いた。
 目賀野は鞄を持って、中へ入った。
「臼井。うしろを閉めろ」
「はい」
 扉が閉められた。と、自動式に錠《じょう》がぴしんと掛った。
 この洋間には、窓が一つもなかった。しかし天井からは豪華なシャンデリアが下って、あたりを煌々《こうこう》と照らしていた。大理石のマンテルピース、一つの壁には大きな裸体画、もう一つの壁には印度|更紗《サラサ》が貼ってあった。立派な革椅子に、チーク材の卓子など、すこぶる上等な家具が並んでいて、床を蔽《おお》う絨氈《じゅうたん》は地が緋色《ひいろ》で、黒い
前へ 次へ
全22ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング