かた》なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。
おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。
失踪《しっそう》の博士
いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図《さしず》をし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。
面会人は臼井《うすい》藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事|目賀野《めがの》俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。
「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力《ごじんりょく》に縋《すが》りたいと存じまして、目賀野|閣下《かっか》から紹介して頂いたような次第でございます」
青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重《ていちょう》な言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしい腫《は》れぼったい瞼《まぶた》や、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。
(目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控《さしひか》えることにして、
「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請《そうさしんせい》は本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書《とどけしょ》を出されたい」
と返答をした。
「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性《すじょう》などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が要《い》りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」
「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、且《かつ》又《また》非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを煩《わずら》わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという夥《おびただ》しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起《じゃっき》していまして、本課は全力をあげて約四十日間|捜索《そうさく》を継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮《めいきゅう》入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」
「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々《ただただ》重大人物博士の失踪《しっそう》について非常なる憂慮《ゆうりょ》と不安と焦燥《しょうそう》とを覚えている次第でございます」
「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査|申請《しんせい》をせられたい」
「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。況《いわ》んや博士に於《おい》ては家出せられるほどの事情は痕跡《こんせき》ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐《ゆうかい》したと見なければならない甚《はなは》だ重大刑事事件であります。果《はた》して然《しか》らば、刑事部捜査課長たる足下《そっか》が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」
「一体《いったい》誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」
「赤見沢《あかみざわ》博士のことです。あの有名な実験物理学の権威《けんい》、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国《ばんこく》学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解《ごりょうかい》になるでしょう」
「もちろんです」課長は勢い上、そう応《こた》えなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時《いつ》のことですか」
「昨夜以来、お邸《やしき》へお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目に懸《かか》る約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、遂《つい》に博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い――今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな――それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付《かけつ》けましたような訳です。如何です。昨夜何か都
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