ってしまったんだそうです」
「どうしたのだろう」
「女の膝から博士の膝へ、或る麻薬《まやく》の注射が施《ほどこ》されたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。――それから博士は、意識の朦朧《もうろう》たる裡《うち》にも、膝の間に挟《はさ》んでいた鞄が掏《す》りかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……」
「怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね」
「そうなんです。これが頗《すこぶ》る重大な事柄《ことがら》なんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよく覚《おぼ》えているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻の整《ととの》った美しい人物だったといいますよ」
「えっ、何という。美男美女だって?」
「正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男――万沢とかいいましたね――あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人《りょうにん》らしいのですよ」
「ふーん、そうか」
田鍋課長は、満面を朱盆《しゅぼん》のように赭《あか》くして、膝を叩いて呻《うな》った。
「ね、課長さん。さっきあなたから伺《うかが》った話から誘導《ゆうどう》すると、その美貌の男こそ、烏啼天駆《うていてんく》でなければならないと思うんですが、課長さんの意見は如何ですか」
帆村は、大胆なことをいった。
「そうかもしれない。いや、それに違いない。あれが烏啼なら、あのとき逃がすんじゃなかった。で、女は何者か」
「それが分らないのです。しかしですよ、この事件の主軸《しゅじく》には、二つの者が功を争っていることは、僕も察していました。例えばあの紛失鞄の新聞広告のことですね。
あの広告主の一人は烏啼天駆であり、もう一人はやっぱりあの女だったんですよ」
「ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない」
「あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄を奪《うば》ったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いに睨《にら》み合《あ》っていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれを唆《そそ》のかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女が嗅《か》ぎつけて、暴《あば》れこんだという訳なんでしょう」
「そうだ、それに違いない。するとわが輩《はい》も大迂回《だいうかい》をやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい」
天罰《てんばつ》下る
事件は、そこまでは解《と》けた。
当局は警戒網《けいかいもう》を三原山のまわりに厳重に固《かた》めめぐらした。
その一方、大学に懇請《こんせい》して、火口底《かこうてい》に果してラジウム二百|瓦《グラム》が投げこまれてあるのかどうかを検《しら》べて貰った。これは案外苦もなく分った。たしかにラジウムは火口底の南寄りの岩の間にあることが確認された。
しかし、そのラジウムを取出す方法はちょっと簡単には出来そうもないことが分り、当局は未だに警戒の陣をゆるめないで番をしている。なにしろその後、烏啼の消息《しょうそく》がさっぱり分らないので、油断《ゆだん》はならないとのことであった。
帆村はもうラジウム事件には、大した興味を持っていない。しかし田鍋課長が、彼に自慢らしく語ったところでは、烏啼はあのR大学の研究所のラジウム保管室の向いの研究室の助手に化《ば》けこんでいて、あのラジウムを巧《たく》みに盗《ぬす》み出した。それから彼は、かねて連絡をつけてあった看護婦の秋草《あきくさ》に渡した。秋草はそれを持って出て、某《ぼう》飛行場へ急行し、烏啼の一味である矢走という男をして、その品物を飛行機でもって三原山の噴火口に投げおとさせたと認める。例の美男美女というのは、この烏啼と秋草らしいといわれる。研究所の同僚たりし人々は、確かに彼ら二人を、美男美女と認めているから、間違いないと、田鍋課長はいささか得意で、椅子《いす》の背にふん反《ぞ》りかえった。
帆村の興味は、そんなことよりも、大島の松の木にひっかかっていたお化け鞄と猫又の死骸と血染《ちぞめ》の細紐《ほそひも》が、何を語っているか、それを解くことに懸《かか》っていた。
その年の春、ひどい海底地震が相模湾《さがみわん》の沖合《おきあい》に起り、引続いて大海嘯《おおつなみ》が一帯の海岸を襲った。多数の船舶が難破《なんぱ》したが、その中の一隻に奇竜丸《きりゅうまる》という二百トンばかりの船があって、これは
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