めトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金《かけがね》をひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。
彼は拳固《げんこ》をこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口を閉《し》めて再び店の一隅へ並べた。
しばらくは何事もなかった。
ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へ匐《は》い出《だ》していったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をする虞《おそ》れがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然《ふつぜん》と損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにも拘《かかわ》らず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率《けいそつ》に叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身の頭が変になっていたんだなどと後に指摘されることになってはいやだと思ったらしいのである。
トランクはどこへ行ったろう。
店員はそれを発見するのに大して骨を折らなかった。その赤革のトランクは、金色の金具を午後の太陽の反射光で眩《まぶ》しく光らせながら、広い道路を半分ばかり渡り、地上約三尺ばかりの高度を保って、なおも向いの側の人道へ辿《たど》りつこうとしていた。
と、左の方から一台のトラックが疾走《しっそう》して来て、呀《あ》っという間にそのトランクに突きあたった。トランクは、フットボールのように弾《はじ》かれて上へ舞いあがった。と思う間もなく下へ落ち始めた。するとその下へトラックの車体がすうっと入って来て、トランクを受け留めた。そのトラックは空《から》であった。そのトラックは、始めトランクに突き当ったそれだった。かくしてそのトラックは速力を緩《ゆる》めることなしに、店員にガソリンの排気《はいき》をいやというほど引掛《ひっか》けて遠去《とおざ》かっていってしまったのである。
店員は、トラックの番号を覚《おぼ》えることさえ忘れて、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。なんという気味のわるいトランクだろう。豚《ぶた》のように跳ねあがり、通りすがりのトラックへとびこんで逃げてしまいやがった。これで、今朝、顔色のわるいカーキ服の男から三百円で買い取った品物をなくして、三百円丸損となってしまったぞと、大いに恨《うら》めしく思った。
この話が、誰から誰へとなく拡がって行ったのである。
怪異《かいい》は続く
東京朝夕新報の朝刊八頁の広告欄に、気のついた人ならば気になったであろうところの三行広告が二つ並んで出ていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
○紛失《ふんしつ》、赤革トランク、特別美|且《かつ》大なる把柄《はへい》あり、拾得届出者に相当謝礼、姓名在社三二五番
[#ここで字下げ終わり]
もう一つは、次のとおりであった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に莫大《ばくだい》謝礼、姓名在社三二六番
[#ここで字下げ終わり]
つまり両方とも赤革トランクを返してくれと訴えているものだった。
前日トラックの運転手は、空トラックを店のガレージの前に停め、車体の点検を行ったとき、ふしぎなことに、後の荷置き場の隅《すみ》に赤革トランクが逆《さか》さになって置かれてあるのを発見した。彼はそれを下へ下ろし、開いても見たが全然|見覚《みおぼ》えのないものだった。
そのうちに朋輩《ほうばい》の誰彼がそのまわりに集って来た。そしてこのようなすてきな鞄を何処で手に入れたのかと知りたがった。
かの運転手は早速返事をして途中まで喋《しゃべ》ったが、そこであとの言葉を嚥《の》みこんだ。そして俄《にわか》に彼は一つの創作をひねりだしてそれを以て返事に継《つ》ぎ足《た》そうとしたとき、支配人の酒田が割込んで来て、その鞄を欲しがった。結局、運転手はその鞄を百円札五枚で支配人に譲り渡した。売った方も買った方もにこにこしていた。
酒田はその鞄を手にぶら下げて、そこから程遠からぬところにある彼の邸へ歩いて帰った。彼は目下やもめ暮しであった。家族たちはまだ疎開《そかい》先に釘《くぎ》づけのままだった。東京のこの家には、家政婦の老婆が一人仕えているだけだった。
酒田はその鞄を持って帰ると、押入を開いて、下の段の奥へ押込んだ。そしてすぐ襖《ふすま》を閉めた。どういうわけでそうしたのか明瞭《めいり
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