とりで喋りだした。
「警視庁の自動車が門前に停りました。三人の紳士が今玄関に立ってベルを押しています。一番えらそうな紳士は鼠《ねずみ》色のオーバーを着た大男です……」
そこまで聞くと、目賀野は万事を悟った。
「捜査課長の田鍋が来たんだ。さすがに早く気がついたな。さあ千田、今のうちに地下道を通って長屋から出て行け。草枝は裏から抜け出ろ。そして松戸の駅前の丸留の家で待っているんだ。もんぺはそこで借りりゃいいぞ」
目賀野はそういって命令を伝えると、彼自身は隣室へとびこんで、ばたりと扉を閉じた。
鞄の怪談
田鍋課長一行は、一向要領を得ないで、目賀野氏が留守だという邸から引揚げた。もし課長が、今しがたそこの地下室での出来事を勘づいていたら、そのように温和《おとな》しく帰りはしなかったろう。
目賀野は行方不明となった。だが、田鍋は別に大して重要と思わないから、捜査命令を出しはしなかった。その代り彼は赤見沢博士の容態《ようだい》には十分の警戒を払い、専門の警察医を附添わせた。
こうして、何だか正体《しょうたい》の分らないこの妙な事件は、田鍋課長側と目賀野側との間に喰いちがいのあるままでそれから先を別々に進行していった。
臼井は、あれから船に乗せられると間もなく正気づいたが、自分が船内に軟禁《なんきん》されている身の上であることを、千田から話されて知った。こうなれぼ当分温和しくしているより仕方がない。そのうちに千田や船員が油断《ゆだん》をするだろうから、脱出も出来ようと考えた。但し脱出したのがよいか、しないで辛抱していた方が安全か、これは篤《とく》と考えてみなければならない問題だと思った。
ちょうどその頃、東京に一つのふしぎな噂が流れはじめた。それは怪談の一種であるとして取扱われていた。人影もない深夜《しんや》の東京の焼跡《やけあと》の街路を、一つのトランク鞄《かばん》がふらりふらりと歩いていた、そのトランクを手に下げている人影も見当らないのに、トランクだけが宙をふわりふわりと揺《ゆ》れながら向こうへ行くのを見たというのだ。
もし事実なら、奇々怪々《ききかいかい》なる出来事だといわなければならぬ。
その怪事の目撃者というのは、焼跡に建っている十五坪住宅の主人で、昼間は物品のブローカーをしている人だったが、その人が夜中|厠《かわや》へ入って用を足しながら何気なく格子の外を覗《のぞ》いた、折柄《おりから》二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
「寝呆《ねぼ》けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛《せちがら》い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言《ほうげん》したという。
だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧《やっこだこ》や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
では、トランクの幽霊《ゆうれい》か。トランクに霊あるを未《いま》だ聞いたことがない。
結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺《しょうさつ》されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰《ごづめ》のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄|変化《へんげ》に関するものであった。
何でも新宿の専売局跡の露店《ろてん》街において、昼日中《ひるひなか》のことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後を追《お》い駈《か》けた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇から抱《だ》き留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感《きんあつかん》はといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じた由《よし》である。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性《かんせい》のようなものをも感じたというのである。
その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄《はへい》へ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだか俄《にわか》にトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のた
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