ょう》でないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。
夕食後、彼は居間に引籠《ひきこも》った。例の鞄を押入から出して、絨氈《じゅうたん》の上に置いて開いた。それから彼は箪笥《たんす》の引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地を摘《つま》み且つ匂いを嗅《か》いだ。そして二種類に別《わ》けて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢《ながじゅばん》もあるし、錦紗《きんしゃ》もあるし、お召《めし》もあり、丸帯もあり、まるで花嫁|御寮《ごりょう》の旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留《おびどめ》や指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環《うでわ》の箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿《か》の子《こ》緋《ひ》ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹《たいこばら》のように膨《ふく》らんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打《したうち》をした。
「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎《かんじん》の錠前《じょうまえ》がついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」
鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様《しよう》がない。折角《せっかく》トランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒《めんどう》だ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋《やみや》の旦那はこのところ聊《いささ》か過労の体《てい》にて、寝椅子の上へ身体をのせた。
「旦那さま。もうここの戸締《とじま》りをいたしてよろしゅうございましょうか」
婆やの声である。
酒田が、締《し》めておくれというと、婆やさんは硝子《ガラス》戸をあけて、長い廊下を箒《ほうき》でさらさらと掃《は》き出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。婆やさんはそれに気づいて勝手の方へ駆《か》けこんで行く。やがて婆やさんが再び駆け出して来て、酒田へ電話を取りつぐ。そこで酒田は寝椅子《ねいす》からむっくり起上って、婆やと共に勝手の方へ行く。電話機は勝手の廊下の隅にあって、そこは暗いので、婆やさんは電灯を急いで吊《つ》りかえなければならなかった。
こうして僅か十分足らずの時間、お座敷の方を空虚《くうきょ》にして置いただけで、電話が終ると酒田と婆やさんとは再びお座敷の方へ戻って来て、婆やさんは雨戸《あまど》の残りを戸袋から繰《く》り出すし、酒田はラジオをちょっとひねって、そして男女合唱がとび出して来ると、すぐスイッチをひねって消し、それから煙草をつけて安楽椅子へ腰を下ろしたんだが、忽《たちま》ち彼はバネ仕掛の人形のようにとびあがった。
「あれッ、ここに置いてあったトランクが見えないぞ。……トランク、どこへ持って行った?」
それからの騒ぎを一々克明にここに写している遑《いとま》はない。とにかくかのトランクは煙のように消えてしまったのである。庭の植込みに隠れていたかもしれない泥坊《どろぼう》の詮議《せんぎ》や、一応は疑われた婆やさんのこと、酒田の物忘れについての疑惑《ぎわく》など、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜《おぼろづきよ》の戸外へと彷徨《さまよ》い出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。
それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。
外濠《そとぼり》の堤の松の下の暗闇《くらやみ》を連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて――そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今や鼠《ねずみ》に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治《あらりょうじ》を決行するに及ばなかった。男も女も、一応|妖異《ようい》に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女
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