ょう》でないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。
夕食後、彼は居間に引籠《ひきこも》った。例の鞄を押入から出して、絨氈《じゅうたん》の上に置いて開いた。それから彼は箪笥《たんす》の引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地を摘《つま》み且つ匂いを嗅《か》いだ。そして二種類に別《わ》けて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢《ながじゅばん》もあるし、錦紗《きんしゃ》もあるし、お召《めし》もあり、丸帯もあり、まるで花嫁|御寮《ごりょう》の旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留《おびどめ》や指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環《うでわ》の箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿《か》の子《こ》緋《ひ》ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹《たいこばら》のように膨《ふく》らんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打《したうち》をした。
「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎《かんじん》の錠前《じょうまえ》がついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」
鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様《しよう》がない。折角《せっかく》トランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒《めんどう》だ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋《やみや》の旦那はこのところ聊《いささ》か過労の体《てい》にて、寝椅子の上へ身体をのせた。
「旦那さま。もうここの戸締《とじま》りをいたしてよろしゅうございましょうか」
婆やの声である。
酒田が、締《し》めておくれというと、婆やさんは硝子《ガラス》戸をあけて、長い廊下を箒《ほうき》でさらさらと掃《は》き出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。
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