ら何気なく格子の外を覗《のぞ》いた、折柄《おりから》二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
「寝呆《ねぼ》けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛《せちがら》い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
 と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言《ほうげん》したという。
 だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧《やっこだこ》や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
 では、トランクの幽霊《ゆうれい》か。トランクに霊あるを未《いま》だ聞いたことがない。
 結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺《しょうさつ》されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰《ごづめ》のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄|変化《へんげ》に関するものであった。
 何でも新宿の専売局跡の露店《ろてん》街において、昼日中《ひるひなか》のことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後を追《お》い駈《か》けた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇から抱《だ》き留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感《きんあつかん》はといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じた由《よし》である。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性《かんせい》のようなものをも感じたというのである。
 その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄《はへい》へ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだか俄《にわか》にトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のた
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