柿色の紙風船
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)林檎《りんご》のように

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大変|突飛《とっぴ》な

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それがし[#「それがし」に傍点]なのである。
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「おや、ここに寝ていた患者さんは?」
 と林檎《りんご》のように血色《けっしょく》のいい看護婦が叫んだ。彼女の突《つ》っ立《た》っている前には、一つの空ッぽの寝台《ベッド》があった。
「ねえ、あんた。知らない?」
 彼女は、手近《てぢか》に居た青《あお》ン膨《ぶく》れの看護婦に訊《き》いた。
「あーら、あたし知らないわよ」
 といって編物の手を停めると、グシャグシャにシーツの乱《みだ》れているその寝台の上を見た。
「あーら、本当だ。居ないわネ」
「ど、どこへ行ったんでしょうネ」
「ご不浄《ふじょう》へ行ったんじゃないこと」
「ああ、ご不浄へネ。そうかしら……でも変ね。この方、ご不浄へ行っちゃいけないことになってんのよ」
「まあどうして?」
「どうしてといってネ、この方、つまり……あれなのよ、痔《じ》が悪いんでしょ。それでラジウムで灼《や》いているんですわ。判るでしょう。つまり肛門《こうもん》にラジウムを差し込んであるんだから、ご不浄へは行っちゃいけないのよ」
「治療中だからなのねェ」
「それもそうだけれどサ、もし用を足している間に、下に落ちてしまうと、あのラジウムは小さいから、どこへ行ったか解らなくなる虞《おそ》れがあるでしょう」
「そうね。ラジウムて随分《ずいぶん》高価《たか》いんでしょ」
「ええ。婦長さんが云ってたわ。あの鉛筆の芯《しん》ほどの太さで僅《わず》か一センチほどの長さなのが、時価五六万円もするですって。ああ大変、あれが無くなっちゃ大変だわ。あたし、ご不浄へ行って探してみるわ。だけどもし万一見付からなかったら、あたし、どうしたらいいでしょうネ」
「そんなことよか、早く行って探していらっしゃいよ」
「そうね。ああ、大変!」
 林檎のように顔色の良かった看護婦も、俄《にわ》かに青森産《あおもりさん》のそれのように蒼味《あおみ》を加えて、アタフタと室外へ出ていった。
 だが彼女は、出ていったと思ったら、五分間と経たないうちに、もう引返して来た。引返して来たというより、むしろ飛び込んで来たという方が当っていた。その顔色と云えばまったく血の気もなく蒼褪《あおざ》めて――。
「ああーら、どこにもあの人、居ないわ。あたし、どうしましょう。ああーッ」
 彼女は、藻抜《もぬ》けの殻《から》の寝台の上に身を投げかけると、あたり憚《ははか》らずオンオン泣き出した。その奇妙な泣き声に駭《おどろ》いて、婦長が駆けつけてくる。朋輩《ほうばい》が寄ってくる。はては医局《いきょく》の扉《ドア》が開いて医局長以下が、白い手術着をヒラつかせて、
「なんだなんだ」
「どうしたどうした」
 と、泣き声のする見当《けんとう》に繰《く》り出《だ》してきた。
 それからの病院内の騒ぎについては、説明するまでもあるまい。なにしろ時価三万五千円のラジウムを肛門に挿《はさ》んだ患者が行方不明になったというのである。患者のことは兎《と》に角《かく》、ラジウムはどっかそこら辺の廊下にでも落ちていまいかというので、用務員は勿論、看護婦までが総出で探しまわった。
「無い……」
「どうも見つからん」
「困ったわねエ。でも探すものが、あまり小さすぎるのだわ」
 そのうちに廊下に大きな掲示が貼り出された。「懸賞」と赤インキで二重丸をうった見出しで、「ラジウムを発見したる者には、金五百円也を呈上《ていじょう》するものなり」と、墨痕《ぼっこん》あざやかに認《したた》めてあった。この掲示が出て騒ぎは一段と大きくなった。
 だが結局、判らぬものは遂に判らなかった。五百円懸賞の偉力《いりょく》をもってしても、ラジウムは出て来なかった。なにしろ太さといえば鉛筆の芯《しん》ぐらいで、長さは僅か一センチほどというのであるから、廊下に落ちれば、風に吹きとばされるであろうし、便所の中に落ちてサアと流れ出せば、なおさら判らなくなるだろうし、ことに患者の体内に入ったままとすれば、患者がどこへ行ったかが判らなければ駄目だった。
 病院の一室では、責任者たちの緊急会議が開かれた。結局原因は、ラジウムを盗むつもりでやって来たのだろうという説が有力だったが、婦長の如きは、患者が識《し》らずに三十分以上もあのラジウムを肛門に入れて置くと、ラジウムのために肛門の辺《へん》がとりかえしのつかぬ程腐って遂《つい》には一命《いちめい》に係《かかわ》るだろうなどと心配した。しかし誰が盗んでいったか、そいつばかりは誰にも判らなかった。
 ――と云う事件について、今も尚みなさんは多少の記憶を持っていられないだろうか。あの「ラジウム入り患者の失踪事件」というのが、新聞に報道されたのは、もう今から五年あまり昔のことだった。
 あの事件に興味を持って、その後の記事を楽しみになすった方もあったろうが、そういう方はきっと失望せられたに違いない。なぜなれば、あれから後、あの患者が逮捕されたという話も無ければ、用務員さんがラジウムを発見して五百円貰ったという記事も出なかったからである。あの事件の報道は、あれっきりのことで、杳《よう》として後日物語がうち断たれてある有様だった。

 五年あまり後の今日――
 ここに図《はか》らずも、あの「ラジウム入り患者の失踪《しっそう》事件」の真相と、その後日物語を発表する機会を与えられたことを、みなさんに感謝する次第である。
 さてあの時価金三万五千円也のラジウムはどうしたか。それから、あのラジウム入りの患者はどうなったか。
 患者の方については、なによりもまず安心せられたい。あの思いやりのある婦長さんや、新聞記者君が心配して下すったことは、遂に杞憂《きゆう》に終ったのであるから。つまりあの患者は、ラジウムに生命《いのち》を取られることなしに、うまく助かったのである。そして今もピンピンしている。ピンピンしているどころか、こうして原稿用紙に向ってペンを動かしているのである。
 あの失踪した患者というのは、実《じつ》は斯《か》くいうそれがし[#「それがし」に傍点]なのである。本名を名乗ってもいい。丸田丸四郎――これが私の本名である。
 こう名乗ってしまうと、まず真先《まっさき》に訊《き》かれるだろうと思うことは、
「どうしてお前は、病院のベッドから居なくなったのだ」ということだろう。
 これについては、正直に次のように答えたい。「そいつは予《かね》ての順序だったのだ……」
 予ての順序だったのだ。つまりラジウムを挿入《そうにゅう》されて、ほんのすこしだけれど、じっと寝かされるのを待っていたのだ。医師と看護婦とは、私が寝台《ベッド》の上に釘《くぎ》づけになっているだろうことを信じて疑わなかった。
「動かないで下さい。ちょっとの間ですから」
 と医師は私に云った。そして看護婦の方を向いて、
「いいかネ。二十分だよ。……僕は医局にいるからネ」
「はア。――」
 そして医師が向うへ行ってしまうと間もなく看護婦は私に云った。
「動かないで下さい。ちょっとの間ですから。――」
 そういって彼女は、林檎のような頬に、千恵蔵《ちえぞう》氏のついている映画雑誌を懐《なつか》しくてたまらぬという風に押しあて、そして向うへパタパタと行ってしまった。多分その千恵蔵氏を残念ながら誰かに返す時間が来ていたのであろう。
 そこで私は、たいへん自然に、ベッドから起き上って脱出する機会を攫《つか》んだ。近所には別の青《あお》ン膨《ぶく》れの看護婦が、しきりに編物をしていたが、彼女は編物趣味の時間を楽しんでいるわけであって、管轄《かんかつ》ちがいのベッドに寝ている私の立居振舞《たちいふるまい》については、まったく無関心だった。だから私は実に威風《いふう》堂々と、あの部屋を脱出していった。
 私は直ぐに便所へ行った。
 鍵をしっかりおろすと、私はかねて勝手を知ったる身体の一部を指先でまさぐった。はたしてそこには、丈夫な二本の細い紐《ひも》の垂《た》れ下《さが》っているのを探しあてた。
「ううーン」
 と私は呼吸を図《はか》りながら、指先でその紐をギュッギュッと引張った。果して手応《てごた》えがあった。やがてズルズルと出て来たのは小銃の弾丸のような細長い容器に入ったラジウムだった。私はそれを白紙《はくし》の上に取って、ニヤリとほほえんだ。
「叩き売っても、まず……三万両は確かだろう」
 私は白紙をクルクルと丸めると、着物の袂《たもと》に無造作に投げこんだ。そして嬉しさにワクワクする胸を圧《おさ》えて、表玄関の人込《ひとご》みの中を首尾よく脱出したのだった。
 こうして私の永く研究していたスポーツは、筋書どおりにうまく運んだのだった。これで私も、末の見込みのない平事務員の足を洗って、末は田舎へ引込むなりして悠々自適《ゆうゆうじてき》の生活ができるというものと、悦《よろこ》びに慄《ふる》えた。
「ではお前は、あのラジウムを直ぐ処分したのかネ」と訊《き》かれるであろう。
 直ぐ処分するということは、凡《およ》そ泥棒と名のつく人間の誰でもやるであろうところの平々凡々の手だ。そして同時に拙劣《せつれつ》な手でもある。――私はそんな手は採用しなかった。
 そこで私の第二段の計画にうつった。それは、大変|突飛《とっぴ》な計画だった。私はその足ですぐに日本橋の某百貨店へ行った。そこの貴金属売場へゆくと、誰にも発見されるような万引をやった。果して私は逮捕せられてしまった。それでいいのだった。
 なぜなれば、即日《そくじつ》から、身体の自由を失ったと云うことは、即日から、私は警察の保護をうけたことになるのだ。
 常習万引《じょうしゅうまんびき》の罪状はきわめて明白《めいはく》だった。予審《よしん》が済むと、私の身柄は直ちに近郊の刑務所に移された。やがて判決|言渡《いいわたし》があった。
「被告ヲ懲役《ちょうえき》五年ニ処《しょ》ス!」
 私は晴れて刑務所の人間になった。私は落ちつくところへ落着いて、たいへん安心したのだった。
 その頃、世間では「ラジウム入り患者の失踪事件」のことなんか、もうすっかり忘れてしまっていた。病院の方でも、もう出ないものと諦《あきら》めていた。警察では、真犯人の私のことを、あろうことかあるまいことか、常習万引罪で刑務所に封鎖してしまったので、いくら巷《ちまた》を探したって、犯人が網《あみ》に懸《かか》る筈がなかった。かくして例の事件は、盲点《もうてん》に巧みに隠蔽《いんぺい》せられることとなった。
 それはそれで大変うまくいったのだが、唯一つ困ったことが出来た。
「なんか異状はないか」
 と看守が、私の独房の窓から、室内を覗きこんだ。
「はア、困っていますんで……」
「困っている? それは何か」
「痔《じ》でござんす。痛みますんで、夜もオチオチ睡れません」
「睡れないのは、誰でも入りたてはちと睡れぬものさ。痔だなんて、つまらん芝居をするなよ」
「芝居じゃありませんです。じゃそこで看守さんは見て居て下さい。いま此処で股引《ももひき》を脱いで、御覧に入れますから」
 そういって私は柿色の股引に手をかけた。
「ば、ば、馬鹿」と看守は慌《あわ》てて呶鳴《どな》った。「おれが見ても判らん。上申《じょうしん》してやるから一両日待っとれッ」
 ガチャンと窓に蓋《ふた》をして、看守は向うへ行ってしまった。
 私は顔を顰《しか》めながら、茣蓙《ござ》だけが敷いてある寝台の上にゴロリと横になった。
 ――思いかえしてみると、痔の悪くなるのも無理がなかった。あの病院へ行っていたころ、本当に悪かったのである。あれからこっち、汗をかくほどの活動を、それからそれへとした上に、ラジウムの隠しどころとして、あの肉ポケットを利用した時間が実に相当の量にのぼっ
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