さて私は、その日から、痔《じ》の治療をうけることになった。何かにつけ、娑婆《しゃば》とは段違《だんちが》いに惨《みじ》めな所内《しょない》ではあるが、医務室だけは浮世並《うきよな》みだった。
「少し痛いが、辛抱《しんぼう》しろよ」
と医務長は云った。なるほど手術は痛くて、蚕豆《そらまめ》のような泪《なみだ》がポロポロと出た。
独房へ帰って来ても、痛くて起上れなかった。このままでは、腰が抜けてしまうのではないかと思った。私はそのとき、箒《ほうき》の中に隠してあるラジウムを思い出した。私は朝と夜との二回、ラジウムを取り出して患部にあてた。そして毎日それを繰返した。
「どうだ、吃驚《びっくり》するほど、早くよくなったじゃないか」
と医務長は得意の鼻をうごめかせて云った。
「へーい」
私は感謝をしてみせたが、肚《はら》の中ではフフンと笑った。医務長の腕がいいのではない。私のやっているラジウム療法がいいのだ。――こんなわけで、痔の方は間もなく癒《なお》ってしまった。
それからは、まことに単調な日が続いた。
初めのうちは、刑務所ほど平和な、そして気楽な棲家《すみか》はないと思って悦《よろこ》んでいた。しかし何から何まで単調な所内の生活に、遂《つい》に愛想《あいそう》をつかしてしまった。
尤《もっと》も、私達は手を束《つか》ねて遊んでいるわけではない。私達の一団は、紙風船《かみふうせん》を貼《は》っているのである。広い土間《どま》の上に、薄い板が張ってあって、その一隅《いちぐう》に、この風船作業が四組固まって毎日のように、風船を貼っているのだった。それは刑務所の中での一番|華《はなや》かな手仕事だった。赤と青と黄、それから紫に桃色に水色に緑というような強烈な色彩の蝋紙《ろうがみ》が、あたりに散ばっていた。何のことはない、陽春《ようしゅん》四月頃の花壇《かだん》の中に坐ったような光景だった。向うの隅で、麻《あさ》の糸つなぎをやっている囚人たちは、絶えず視線をチラリチラリと紙風船の作業場へ送って、快《こころよ》い昂奮《こうふん》を貪《むさぼ》るのであった。
風船をつくるには、色とりどりの蝋紙の全紙《ぜんし》を、まずそれぞれの大きさに随《したが》って、長い花びらのように切り、それを積み重ねておく。それから小さいオブラートのような円形《えんけい》を切り抜いて積み重ねる。これは風船の、呼吸《いき》を吹きこむところと、その反対のお尻のところとの両方に貼る尻あて紙[#「あて紙」に傍点]である。呼吸を吹きこむ方のには、小さい穴を明けて置く、これだけが風船の材料であるが、それを豊富にとりそろえて置く。
紙風船の作業は、一番初めに、あの花びらのような材料の組み合わせを作る。たとえば赤と黄との二色を、一つ置きに張った風船をつくるのであると、そのような二種の花びらを揃える。それから一枚一枚、すこしずつ外《はず》して並べ、ゴム糊《のり》を塗る。それが一役。
次へ廻ると、ゴム糊の乾《かわ》かぬほどの速度で、その花びらを一つ置きに張ってゆく。すると台のない提灯《ちょうちん》のようなものが出来る。これが一役で、四五人でやる。
今度はそれの乾いた分から取って、半分に折り、丁度《ちょうど》お椀《わん》のような形にする。これも一役。
次は私と五十嵐庄吉とのやっている作業であるが、二人の間に、張型《はりがた》のフットボールの球に足をつけたようなものが置いてある。まず五十嵐の方が、二つに折られて来た紙風船をとって、いきなりこのフットボールの上にパッと被せる。すると私は、オブラートに糊《のり》をつけたものを持っていて、その風船の肛門《こうもん》のようなところへ円い色紙をペタリと貼りつける。すると間髪《かんぱつ》を入れず、五十嵐の方が風船をフットボールから外《はず》すと、素早くお椀みたいなのを裏返しにして、もう一度フットボールの上に載せる、すると反対の側の風船の肛門が出てくるから、私は小さい穴のあいている方のオブラートをペタリと貼るのである。それで紙風船の作業は終った。
あとは五十嵐が、出来上った紙風船を、お椀《わん》を積むように、ドンドン積み重ねてゆく。すると、ときどき検査係が廻って来て、その風船の山を向うへ搬《はこ》んでいってしまう。
私と五十嵐とは、うまく呼吸《いき》を合《あ》わせて、
「はッ、――」ポン。
「いやア。――」ポン。
と、まるで鼓《つづみ》を打っているように、紙風船の肛門を貼ってゆくのであった。――だがこんな仕事は、せいぜい一と月もやれば、いやになるものだった。
しかし月日の経つのは早いもので、そのうちに刑務所のお正月を、とうとう五度、迎えてしまった。やがて二月が来れば、いよいよ娑婆《しゃば》の人になれることとなった。その後、あの
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