の町では、土嚢《どのう》の山と防空壕の建札《たてふだ》と高射砲陣地がものものしいだけで、あとは閉《しま》った店がすこし目立つぐらいで、街はやっぱり華美《かび》であった。
 防毒面《ぼうどくめん》こそ、肩から斜めに下げているが、行きずりの女事務員たちは、あいかわらず溌剌《はつらつ》として元気な声をたてて笑っていたし、牝牛《めうし》のように肥えたマダムは御主人にたくさんの買物を持たせて、のっしのっしと歩いていた。彼らは、ロンドンの空一杯に打ちあげられた阻塞気球《そさいききゅう》を、ひどく信頼しているのか、それとも、自分だけには、ドイツ軍の爆弾が命中しないと信じているか、どっちかであるように見えた。
 その日、半日の散歩で、彼は自分が、世の中から忘れられた人であることに気がついて、それがどうも気になってたまらなかった。やっぱり彼は、何を置いても、自分の素姓《すじょう》を知ることが先決《せんけつ》問題であると、そこに気がついた。
 今や元気と常識とを取り戻した彼は、勇躍《ゆうやく》して、その仕事《ビジネス》についた。また新たに、生きている張合《はりあ》いといったものが感じはじめられた。彼は、ふ
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