たが、
「あら、これ、ずいぶん古い新聞なのね」
 と、溜息《ためいき》と共にいった。
「こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの」
「おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた」
「え、ブルートの監獄ですって」
 アンは、なにを思いだしたか、恐《おそろ》しそうに、体をすくめた。
「アン。これごらんよ。こんな記事に、鉛筆でアンダーラインがしてあるんだが、誰が、これを引いたんだろうね」
 そういって、仏天青《フォー・テンチン》は、例の日本将校フクシ大尉の失踪《しっそう》に関するパリ電信の記事を見せた。
 アンは、その記事を読んで、仏の顔を見たが、首を左右に振った。
「誰がつけたのか、あたしは知らないわ。看守さんが引いたのじゃないかしら」
 彼も、それを聞いて、首を振った。
「アン。この記事を見て、なにか感想はないかね」
「感想? べつにないわ」
 と、アンは、突放《つっぱな》すように言って、
「あなたの方に感想がありそうね」
「この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋《さんばし》から海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか」
 仏天青は、前に自分の心に誓ったことなどはもう忘れて、アンの顔色を、鋭い眼で見つめた。
 アンは、ちょっと周章《あわ》てているようであった。
「あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう」
「フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ」
 そんなことを言っているときに、列車は、ストークの駅についた。
 アンは、お腹がすいたから、サンドウィッチがたべたいといった。それからレモン水《すい》も欲しいし、序《ついで》にチョコレートと南京豆《なんきんまめ》とを買ってちょうだいなと、彼に金を渡した。
 仏は、その金を握って、プラットホームに下りた。そしてアンにいわれた品物を、買い集めているうちに、列車は、ぽーっと鳴って動きだした。彼はもちっとで、ホームに置《お》き去《ざ》りにされるところだったが、いそいで駈けつけたので、やっと最後の車に飛び乗ることが出来た。
 仏は、そのたくさんの買物を抱《かか》えて、十三号車まで辿《たど》りつくのに、人や荷物を分けていくため、たいへん骨が折れた。
 やっと十三号車に辿りついて、アンの待っているコンパートメントに入ろうとしたとき、内側で、ひそひそと話声がしているので、彼は、はっと思って、足を停めた。
 廊下に立って、そっと耳を澄《す》ましてみると話しているのは、アンと、そしてもう一人は男の声だった。言葉は、フランス語だった。男の声は、いやに疳高《かんだか》い。アンが、もうすこし低く喋《しゃべ》ってはと注意したが、その男の声は地声《じごえ》とみえて一向《いっこう》低くならなかった。
「……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ」
「もっと小さい声で……」
「とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣《ついせきじん》は、厳重《げんじゅう》だ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目《なわめ》の恥《はじ》をうけていたわけだ」
「よかったのねえ」
「だが、どうにも腑《ふ》に落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等を喰《く》い止《と》め、血を流してまでも働いてやったのに」
「仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ」
「しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね」
 仏天青は、廊下に立ってこの会話を盗み聴きしていたが、それ以上、聞くにたえなかった。ボジャック氏とかいう男は、リバプールの港へ飛び込んだ人物であり、そしてアンの連《つ》れであった。すると、アンの亭主ではないか。アンを自分の妻君だと信じていた仏天青は、全身、血が一時に逆流《ぎゃくりゅう》を始めたような気がした。
(このまま、列車から飛び下りてしまおうか?)
 と、仏天青は、思った。
 だが、彼は、遂《つい》に、そうはしなかった。そして、コンパートメントへ入っていったのであった。
 彼は、初めて声の主ボジャック氏の姿に接した。長身の、目の落ちこんだ、鼻の高い男であった。言葉つきから想像したよりも、若くて
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