まうなんて……)
と、そのときは、当惑したものであるが、しかるに只今、彼の身辺《しんぺん》には、二人妻どころか、只の一人も、妻がついていないのであった。彼は、全く変な気がした。……
そんなことを考えつづけているとき、さっきから、彼をこっぴどい目にあわせた車掌が、彼の前を通りかかった。
「もし、車掌さん。前の列車にいるアンと、連絡がつきましたかね」
彼は、胸を躍らせて、車掌の返事を待った。
「そんな乗客は、いなかった。尤《もっと》も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……」
「そんなことは嘘だ。アンは待っている」
「嘘ですよ。中国人は、見《み》え透《す》いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない」
車掌は、そういって、彼の手をすげなく振り切って、向こうへ行ってしまった。
「そんな筈はない……」
彼は、拳《こぶし》を固《かた》めて、自分の膝のうえを、とんとんと叩いた。
「そんな筈はない。あの車掌め、中国人を侮辱する怪《け》しからん奴だ」
彼は、爆発点に達しようとする憤懣《ふんまん》をおさえるのに、骨を折った、孤立無援《こりつむえん》の彼は……。
列車旅行は、ますます不愉快さを高めていった。列車が、駅へつくたびに、彼は、車窓《しゃそう》から顔を出して、もしやアンの乗っている列車が、同じホームについて、待っていないかと、一生けんめいに探したのであった。
そのうちに、こんな考えが、ふと頭の中に浮んだ。
(アンは、おれを捨てていったのではあるまいか。そうでなければ、バーミンガムの次の駅で下りて後から遅れて来るおれの列車を、待っている筈《はず》じゃないか)
アンは、彼を捨ててしまったのであろうか。とにかく、彼のために親切でないことだけは確かである。
(すると、やっぱり、あのボジャック氏というのが、アンの亭主《ていしゅ》であったのか。そしてボジャック氏、すなわちフン大尉という筋書か!)
彼は、胸糞《むなくそ》がわるくなって、ぺっと、床《ゆか》に唾を吐いた。すると、隣りにいたイギリス人が、こっぴどい言葉で、彼の公徳心《こうとくしん》のないことを叱りつけた。
彼は、なんだか、もう生きているのが味気《あじけ》なくなった。
その味気なさは、列車がロンドンに着いてから、更に深刻味《しんこくみ》を加えた。
なぜといって、彼が最後の頼みとしてい
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