へ戻した。
「おい、アン」
「なあに、あなた」
「お願いだ、おれが、この頭部に負傷したときのことを、もっと詳《くわ》しく話してくれないか」
「ああ、そのことなの」アンは、仏の顔を見上げ、「いつでも、話をしてあげますわ。でも、今はよしましょう。あなた、昂奮《こうふん》していらっしゃるようね。すこしおやすみになったらどうです。あたしも、なんだか、列車にのって安心したせいか、急に睡《ねむ》くなって、ほらこのとおり眼がしょぼしょぼなのよ。ほほほほ」
なるほど、アンの眼は睡そうであった。仏は、見れば見るほど、子供のように可愛いところのあるアンを、これ以上、彼の我儘《わがまま》のため疲らせることは気がすすまなかったので、
「アンよ、おやすみ。そのうち、おれも睡くなるだろうよ」
そういって、仏は、アンの額に、軽く唇をつけた。アンは、早《は》やもう目をとじていた。
あと、十時間だ。
仏は、アンに睡られてしまって、俄に退屈になった。窓外《そうがい》を見ると、空は相変らず、どんよりと曇っている。畠には、小麦の芽が、ようやく三、四|吋《インチ》伸びている。ようやく春になったのである。
仏天青は、またアンの方を見た。アンは、本当に寝込んでしまったらしい。すうすうと、安らかな鼾《いびき》をかいている。そして、弾力《だんりょく》のある小さい唇の間から、白い歯が、ちらりと覗《のぞ》いていた。
仏は、立ち上ると、アンのオーバーの前をあわせ、そしてその襟《えり》を立ててやり、席に戻った。
色のぬけるように白い、鳶色《とびいろ》の髪をもった彼の妻!
(おれは中国人だが、アンは中国人じゃなくて、白人だ。白人にもいろいろある。伊国《イタリー》人だろうか、イギリス人だろうか。いや、イギリス人には、こんな美人はいない。躯の小さいところといい、相当肉づきのいいところといい、ひょっとしたらフランス人じゃないかなあ)
彼は、そんなことを考えながら、妻君《さいくん》の寝顔を、飽《あ》かず眺《なが》めていた。
8
列車の窓から、マンチェスター市の空を蔽《おお》う煤煙《ばいえん》が、そろそろ見えてきた。
アンは、まだ眠っている。
仏天青《フォー・テンチン》は、まだ眠る気になれなかった。そのとき彼は、ポケットの中に、新聞紙があったのを思い出した。それは彼が今着ている中国服を包んであっ
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