千で、問題の高度ですね」
 山岸中尉は落ちついた声でそういう。彼の目は、テレビジョンの上にある、楕円型のノクトビジョンの受影幕に注意力をむけている。何か異変が見つかったら、すぐさま処置をとらないと、竜造寺兵曹長の二の舞を演ずることになるおそれがある。
 その処置とは、どんなことをするのか。出発前、望月大尉と打合わせてきたところでは、異変が起りかけたら、敵の姿が見えようと見えまいと、間髪《かんぱつ》をいれず、機銃で猛射をすることにしてあった。機銃弾の威力は、きっと何かの形で、手ごたえを見せてくれるにちがいないと考えたのである。
 高度はついに二万八千メートルに達した。だが異変は起らない。ノクトビジョンを左右へ振って、前方を注意しているが、なにも見えない。見えるは空ばかり。空が見えているというだけのことで、もうここらには雲片《くもぎれ》一つあるわけではなし、すこぶるたよりない。
 高度を二万九千まであげてみたが、異変はさらに起らない。
 そこで望月大尉は、
「高度二万八千に戻り、水平飛行で偵察を継続するぞ」
 と、山岸中尉に知らせた。
「了解」
 それはかしこいやり方である。竜造寺兵曹長の高度計は、たぶんくるっていないはずである。だから高度二万八千メートルのところがくさいことはたしかだ。しかし高度二万八千メートルの場所は、非常に広いのである。今飛んでいるところは、できるだけ竜造寺兵曹長のとびこんだと思われるところのつもりであるが、地点の推測の方はあまり正確でないので、まちがえたところを飛行しているおそれが多分にある。だから、この高度であたりをぐるぐると水平偵察をやっていれば、きっと例の魔の空間にぶつかると思われる。
 こうして両機は、その高度で水平偵察をはじめた。はじめは円を画《えが》き、それからだんだんと径を大きくして、外側へ大きく円を画きつづけるのだ。つまり螺旋形《らせんけい》の航路をとって探していくのである。望月艇と山岸艇とは、五十メートルの間隔を置いて飛んでいた。
 地上の時刻でいうと、午前九時四十分前後であったが、とうとう望月艇が、異変にぶつかった。
 山岸中尉は、テレビジョンの幕の上にうつる望月大尉の急信号により、望月艇が、異変にぶつかったことを知った。かねての手筈《てはず》により、山岸中尉は、目にもとまらぬ速さで切替桿《きりかえかん》をひき、二号艇の尾部へむかって出る噴射|瓦斯《ガス》を、あべこべに前方へ出るように切替えた。つまり艇に全速後進をかけたのである。
 大きな衝動が、搭乗の三名の肉体に伝わった。肉が骨から放れて、ばらばらになるかと思われるほどの大苦痛に襲われた。が、三人とも一生けんめいにがんばって、それをこらえた。しかし苦痛は短い時間だけつづいて、後はけろりと去った。そのとき、艇はまったく前進力をうしない、石のように落ちつつあるところだった。
 山岸中尉は、急いで高度計を見た。二万七千メートルだ。問題の高度より一千メートル下になった。よし、ここなら安全だと、切替桿を逆につきだして、再度、艇を前進にうつした。
 安定度が非常に高いこの彗星号は、このような乱暴きわまる操作にも、すこしも機嫌《きげん》をわるくしないで、ちゃんと中尉のいうとおりになった。この艇の設計者は、よほどほめられてもいいと、山岸中尉は思った。
 艇が安定をとり戻すと、こんどは急に一号艇のことが気になった。山岸中尉は、目をテレビジョンに持っていった。と、山岸中尉の顔色がさっと変った。一号艇の映像は消えている。いったいどうしたのだ……。
「一号艇、どうしたか」
 山岸中尉は思わず叫んだ。
「一号艇は左上を飛んでいます」
 こたえたのは帆村だ。
「左上を……」
「そうです。しかし変ですよ。今まではノクトビジョンでなければ、姿が見えなかった一号艇が、まぶしいほどはっきり姿を見せているのですよ。そこからも見えるでしょう」
 帆村荘六の声は、いつになくあわてていた。帆村のいうとおりのまぶしい一号艇の姿を、山岸中尉も見出した。まるで照空灯に照らし出されたように見える。
「ああ、一号艇が雲に包まれていく……」
「雲に包まれていく。帆村君、そんなばかなことが……」
「しかしほんとうなのです。事実だからしようがない。さっぱりわけがわからん……」
 帆村のいうとおりだった。一号艇はみるみるうちに、白い雲に包まれていった。そして後部の方からだんだん見えなくなり、やがて頭部も雲の中にかくれて、完全に見えなくなった。
「ふしぎだなあ、しゃくにさわる……」
 と、山岸中尉は、じれったそうに舌うちをした。
「まったくふしぎだ。あの雲は楕円体だぞ。正確に木型で作ったように、廻転楕円体だ」
 帆村の声は、いよいよ、うわずっている。
 山岸中尉の目もそれを確めた。念のためにノクトビジョンでのぞいてみたが、まったくそのとおりだ。
「正楕円体の雲なんてあるかなあ」
 と、帆村は首をひねったが、そのとき彼は電気にふれたように、座席からとびあがって、山岸中尉の肩をつかんだ。
「山岸中尉。わかったですぞ。あの楕円体こそ、いわゆる『魔の空間』です。一号艇はたった今、『魔の空間』にとじこめられたのです」
 叫びながら、楕円体を指す帆村の目は、赤く血走っていた。

   異変と戦う

 成層圏も、高度二万七千メートルになると、いやにすごくなる。まるで月光の下の墓場を見る感じだ。いや、それ以上だ。
 いまはまだ昼間だというのに、空はすっかり光を失って、漆《うるし》のように黒くぬりつぶされている。ただ光るものは、ダイヤモンドをまきちらしたような無数の星、それとならんで冷たく光っている銀盆のような衰えた太陽が見えるばかり。この荒涼たる成層圏風景を、うっかり永くながめていようものなら、そのうちに頭がへんになってくる。
 そういう折しも、指揮官望月大尉ののった彗星一号艇が奇怪なる消失。あれよあれよといううちに、白く光る廻転楕円体の雲の中に包まれて、見えなくなったそのふしぎさ。なぜといって、高度二万七千メートルの成層圏には水蒸気は存在しないから、雲がある道理がないのだ。しかるに帆村荘六も、山岸中尉もともにはっきりと白い雲を見たのである。けっして見まちがいではないのだ。うち重なる成層圏の怪異。この怪異をとく鍵はどこにあるのか。
 彗星一号艇を包んでしまったあやしい形の雲、あの雲こそ「魔の空間」だと帆村荘六は叫んで、山岸中尉に注意をしたが、これは鍵ではない。鍵のはいっている箱かもしれないという程度である。けっきょく「魔の空間」とはどんなものか、それがわからなければ、この謎はとけはじめないだろう。戦う彗星部隊は、高度飛行のくるしさの上に、こうした頭脳のくるしさまでが重々しくのしかかっているのだ。
「電信員」
 山岸中尉の声が、爆発したように聞えた。
「はい」
 弟の山岸少年は、元気な声をはりあげて、兄にこたえた。
「無電をうて、平文《ひらぶん》で急げ」
 中尉は急いでいる。無理もない。帆村は目を近づく楕円雲に、耳を山岸中尉の声に使いわけて緊張の頂点にある。
「宛《アテ》、左倉班長。本文。高度二万七千、一号艇廻転楕円体ノ白雲内ニ消ユ、ワレ、ソノ雲ニ突進セントス、オワリ」
 電文は簡単である。だが簡単な中に、ひじょうにすごい響きがある。山岸少年は、電文を復誦《ふくしょう》した。一字もまちがいはない。中尉が「よし」というのを聞いて、ただちに電鍵《でんけん》をたたきはじめる。さっき中尉から命令をうけると、すぐさま少年は送電機のスイッチを入れて、真空管に点火し、右手の指は電鍵の上に軽くおいて、いつでも打てるように用意をして待っていたのだ。電文は地上指揮所にとどいて、すぐさま同じ文句を地上からうちかえしてきた。
 だが、どうしたものか、その無電は途中でぷつんと切れてしまった。そして山岸少年の耳にかけた受話器に、七色の笛のようなうなり音がはいってきた。
「機長、地上からの送信に、異状がおこりました」
 と、山岸少年は、すばやくその異状を機長にとどけ出た。
 山岸少年は、兄の返事を聞くことができなかった。そのとき事態はひじょうに迫っていたのである。いつどこからわき出したか、白い雲がかなり早い速さでするすると拡《ひろが》って、早くも二号艇を半分ばかり包んでしまったのだ。山岸中尉は、すべての注意力をそっちへそそいでいた。彼はその雲に包まれまいとして、あらゆる努力をこころみた。まだその雲ののび切っていない方向へ全速力でとばせた。が、白い雲は意地わるく、右から左から、また上から下からと、白いゴム布をのばしたようにのびていった。しかもそののび方が一点をめがけてのびていくように見える。残された出口ともいうべき暗黒の空が、見る見るうちに狭くなっていくのだ。
 奇妙にも、その残された黒い空は円形をなしていた。その円の広さがだんだんに狭くなっていくのだ。晴天に大きな蛇《じゃ》の目《め》傘をひろげたようであったのが、ずんずん小さくなって、黒い丸い窓のように見えるまで狭くなり、やがて黒い目玉ほどになった。
「うむ、ちく生」
 山岸中尉が、彼に似合わぬきたないことばを吐いた。よほど癪《しゃく》にさわったとみえる。艇は黒い目玉めがけて突進していったが、やっぱり間にあわなかった。ついにその小さい黒い目玉も消えてなくなり、前は一面に白い雲でおおわれてしまった。艇はいまやすっかり怪雲に包まれてしまったのだ。一号艇を救い出そうとして、その後を追った二号艇であったが、いくばくもなくして、自らも同じ運命におちこんでしまったのであった。
 だが、山岸中尉は、まだ希望をすててはいなかった。たとえこれが怪雲だとしても、これくらいのものは体当りでぶち切ることができるかもしれないと思っていた。そこで彼は、全速をかけたままで、白い怪雲の壁をめがけて激しくどんとぶつかった。
 いけなかった。それがひじょうにまずかった。速度が見る見るうちに落ちた。そしてついにとまってしまった。と思ったら、あろうことかあるまいことか、こんどはあべこべに後方へぶうんと艇が走りだしたではないか。
 山岸中尉は、あぶら汗をべっとりとかいた。操縦桿だけは放さなかったが、艇はもう全く彼の思うとおりには動かなくなった。
(もう処置なしだ)
 と、中尉は心の中で叫んだ。そのうちに艇は次第に安定を回復してきたように思われた。そこで中尉は、ふと計器盤の速度計に目をやった。とたんに彼は、
「あっ」
 と叫んだ。速度計が零を指しているではないか。噴射機関に異状はないのに……。高度計はと見れば、いつの間にか零の近くまでもどっている。竜造寺兵曹長が消息をたつ、その直前に打った謎の無電と同じ状況ではないか。ああ、あの無電……。
“……高度二万八千メートルニ達セシトコロ、突然轟音トトモニハゲシキ震動ヲ受ケ、異状ニ突入セリ。噴射機関等ニマッタク異状ナキニモカカワラズ、速度計ハ零ヲ指シ、舵器マタキカズ。ソレニツヅキ高度計ノ指針ハ急ニ自然ニ下リテ、ホトンド零ニモドル。気温ハ上昇シツツアリ……”
 そうだ。たしかに暑苦しくなってきた。
“……タダイマ外部ノ気圧計急ニ上昇ヲハジメ、早クモ五百五……”
 五百五というところで、竜造寺兵曹長の無電は切れたのだった。山岸中尉が外部気圧計の面をのぞくと、このときの艇内の気圧は五百七十ミリを指していた。なるほど竜造寺兵曹長の場合と同じだ。高度二万七千メートルなら気圧はせいぜい二十ミリぐらいであるはず、それが五百七十ミリを示している。これは高度二千メートル附近にあたる。
 大異変来る。ついに竜造寺兵曹長と同じ運命におちいったのだ。山岸中尉は大きく息をすいこんだ。
「ああ、『魔の空間』、ほんとうだったな」

   処置なし

 山岸中尉は、ついに操縦桿から手を放した。もうこのうえ操縦桿を握っていることが意味なしと思ったからである。
 繰縦桿を放しても、艇はすこぶる安定であった。山岸中尉は、こみあげてくる腹立たしさに、「ちえっ」と舌うちした。倒れた壁の下におさえつけられたも同様だ。
 そ
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