、そのくらいでいい」僕には、はっきりしたことが嚥みこめなかった。「それで、それはうまく成功する見込みかね」
「今やっている最中だ。はっきり分るのは、もうすこし経《た》ってだ。おお、卓子や長椅子を放り出している。艇長は、最後には、艇内にいる三十八人の発狂者を投げ出す決心をしている」
「三十八人の発狂者を……」
いつの間にそんなにたくさんの発狂者が出たのであろうか。僕は、ベラン氏のことを思い出した。
「それは人道に反する。発狂者とて、まだ生きているのではないか。生きているものをむざむざと……」
「待て。リーマン博士の考えはこうなんだ。もしも平衡点離脱に成功しなかったら、本艇の乗員三百九十名の生命は終焉《しゅうえん》だ。そればかりではない。折角の計画が挫折することは人類にとって一大損失だ。迫り来る地球人類の危機を如何にして防衛すべきかという問題の答案が、又もやこれから十何年も遅れることになる。それは思っても由々《ゆゆ》しきことだ。三十八人の発狂者を捨てるくらいは、小さい犠牲だと」
「そういわれると、そうではあるが……」僕は途中で息をついて「しかし僕はベラン氏の身の上を考えさせられるのだ。ベラン氏もやがて捨てられる番をまっているのじゃないか」
僕はこのところベラン氏の姿を見ないので、さては拘束《こうそく》されて発狂の三十八人組の中に入っているのに違いないと思った。
「ああベラン君のことかね。ベラン君なら、一時間ほど前から艇長に迫って、自分を直ちに本艇から地球へ戻せと駄々をこねだした。艇長は、そんなことは出来ないと突っ放ねた」
「今そんなことを持ち出すなんて、自ら火の中へとびこむようなものだ。じゃあ、ベラン氏は今はもう三十八人組の中に入れられたに違いない」
「それはどうかな。とにかくここに居たベラン夫人ミミがさっき艇長のところへ呼ばれていったが、そのままになっている」
「ミミが……。じゃあ、ベラン氏は取戻されるかもしれん」
「おれもそれを祈っているところだ」
魚戸はそういった後で、暗示を受けたようにぶるっと肩を慄《ふる》わすと、展望窓から下をのぞきこんだ。と、彼は悲鳴に似た声をあげた。
「あっ、始まっている……」
「ええっ」
僕は魚戸の横にとんでいって、欄干越しに窓の下方を見た。ああ、たしかに始まっていた。宇宙墓地の方に向って、蜿蜒《えんえん》と続いて流れ込んでいく夥《おびただ》しい棺桶の列と家具の流れ。そのあとにぽつんぽつんと、落葉のように身体を曲げながら人間が続いていく。彼らは、艇側を離れると、何かを掴もうとするように手足をやけにばたばたさせるが、しばらく経つと四肢をぴんと張って、奴凧《やっこだこ》のような恰好になり、それから先は板のように硬直して空間をしずかに流れていくのだった。
「……十五、十六、十七……」
と、魚戸は数を数えている。捨てられゆく発狂者を数えているのだろう。
僕は魚戸のように落着いていることができず、その場にぺったり坐って、両腕の中に頭を抱えた。
「二十一、二十二、二十三……」
魚戸は数え続ける。僕は気の毒なベラン氏がその中に加わっていないことを一生けんめい祈り続けた。
「……三十七、三十八、三十九。可哀そうに、みんなで三十九人だ。三十九人も捨てられてしまった」
もう駄目だ。可哀想なベラン氏よ。僕は口の中で、ベラン氏の冥福を祈った。そして頭をいよいよ床にこすりつけた。そのとき急に自分の身体が……いやその部屋がひどく揺れだした。そして今まで聞いたことのない激しい物音が、僕をおどろかした。今にもこの部屋が裂けてしまうのではないかと心配であった。僕はちよっと目をあけたが、室内は暗黒であった。傍に立っていた筈の魚戸の姿さえ分らなかった。刻々激しさを加えていく鳴動《めいどう》の中に、僕は奈落へふり落とされていくような感じを受けたが、それっきり知覚《ちかく》をうしなってしまった。
驚異の実験
われらの艇は、今穏かなる航空を続けている。
あの引力平衡圏離脱の前後の大難航のことを思い返すと、只もう悪夢をみていたとしか、考えられない。あのとき僕は、遂に気をうしなってしまったが、それほど恥《はず》かしいことだとは思っていない。むしろよくも精神の激動にたえ発狂もせずに無事通りすぎたものだと思う。僕がこう記すと、中には僕の気の弱さを嗤《わら》う人があるかもしれない。だが、それは妥当《だとう》でない。あの凄絶無比の光景を本当に見た者でなければ、その正しい判定は出来ないのだ。
それはともかく、今は至極平穏なる航空を続けている。地球の重力は既に及ばなくなった代りに、月世界からの引力が徐々に増加しつつある。しかし艇内は依然として人工重力装置が働いている。
もうかなり日数が経った。イレネはいよいよ臨月にはいった。さすがに日頃元気な彼女も、ものうそうに、通路や部屋の壁を伝い歩いている。そしてそのうしろには、いつも魚戸の緊張した顔が見られる。
ベラン氏は、幸いにして捨てられずにすんだ。それは従来、夫に対して冷淡に見えた夫人ミミが、あの機会にひどく夫想いになって、艇長に歎願したせいであろう。
そのベラン氏は、あれ以来永いこと病室に保護されていた。そして倶楽部へ顔を出すようになったのは、ようやく昨日からであった。ベラン氏の顔はすっかり悄沈して頬骨が高くあらわれている。頭髪は雀の巣のようにくしゃくしゃとなり、その中に白毛《しらが》がかなり目立つようになった。ミミはベラン氏をおかしいほど大切にしているが、氏の方は、それと反対にすこぶる冷淡で、付添いぐらいにしか扱っていない。
そのベラン氏が、なにか話したげに、僕の傍へやって来た。
いうのを忘れたが、この室備付けの卓子《テーブル》と長椅子を平衡圏で放り出してしまったものだから、今はまるで場末《ばすえ》のバアのように、どこからか集めてきた不揃いの椅子を前のように壁を背にして並べ、卓子の代りに食糧品の入っていた木箱を集めて代用卓子をこしらえ、その上にカンバスを蔽《おお》ってある。このカンバス、方々しみだらけなのはいうまでもない。卓子の数はやっぱり三つにしてある。
「ねえ岸君。君はおれが気が違っていたと思っているのだろう。ねえ、本当にそう思っているだろう」
僕はどっちともつかず、にやにや笑っているほかなかった。
「やっぱりそうだ。常識家の君でさえそう思っているんだから、ミミのやつなんかにいくら話してやっても分らないのは無理もないんだ」
と、氏は大きな掌で自分の膝小僧を掴み、空気ハンマーのように揺すぶった。が、そのあとでまた気を変えたのか、僕の方へすり寄ってきて、
「ねえ、岸君。おれは本当のことをいうが、このベランなる者は初めから、これから先も気が変になってなんぞいないのだよ」
と、氏は指先をぴちんと音をさせ、
「おれは常に正当なることを喋《しゃべ》っている。そういうと君はまた笑うだろうが、それはおれがこのロケットから下ろして地球へ戻してくれといっていたのを思い出すからだろう。それはすこしも笑うべきことではない。おれは今そのわけをお話しよう」
ベラン氏は、僕の腕を掴んで更に身体をすり寄せた。が、そのとき僕の顔をしげしげ覗きこんで、
「ははあ。君はおれの話を聞くのが迷惑らしい顔をしているね。よろしい。では、君が一度に椅子からとびあがる話をしてやろう。聞いているだろうね。この艇長のリーマン博士は、とてつもない素晴らしい器械を本艇に持ち込んでいるのだ。その器械を使えば、空間を生物が電波と同じ速さで輸送されるのだ。おいおい、そんな顔をして冷笑するものではない。これは真実なんだからね」
「そういう高級な科学のことは、魚戸にしてやってくれたまえ」
「魚戸? あんなのに話をしても面白くない。あれは艇長と一つ穴の貍《むじな》みたいなものだ。とにかくおれのいうことは本当だ。リーマン博士は地球出発以来、その実験をいくども繰返しているのだ。だからおれは、その器械に掛けてもらって、地球へ戻してもらおうと思ったのさ。どうだね、話の筋道はちゃんと立っているじゃないか」
僕はベラン氏の話がとても信じられなかった。黙っていた方がいいと思い、そうしていた。
「これだけいっても君は信じないね。よろしい。これから一緒にリーマン博士のところへ行こう。そしてその実験をおれたちに見せるよう要求しよう。さあ立ちたまえ」
ベラン氏は、僕の腕を掴んで引立てた。僕は仕方なしに立った。だがその日は退屈でもあったので、暇つぶしに、ベラン氏対リーマン博士の押問答を見物するも一興だと思い、ベラン氏の引立てるままに、倶楽部を出ていった。
氏は、艇内をあっちこっちと引張り廻し、階段を上ったり下ったり、僕の足を棒のようにさせたが、遂に或る一つの扉の前に連れていった。
「ちょっと先に中へ入って、様子を見てくる。君はここに静かにして待っていたまえ」
ベラン氏は、僕を扉の外に残して、彼自身はまるで空巣狙《あきすねら》いのように、そっと部屋の中に忍びこんだ。
それから四五分経った後、扉が静かに開いたら、ベラン氏が顔を真赤に染めて出てきた。
「静かにするんだ。今、あの素晴らしい実験が始まっている。隣りの部屋から、そっと見下ろすことができるのだ。幽霊のように足音を忍ばせてついてきたまえ」
僕は、そのときもまだ疑っていた。しかしベラン氏に連れられて、中へ闖入《ちんにゅう》し、氏の指さす戸棚を攀《よ》じ登って、その上から硝子窓越しに隣室の光景を俯瞰《ふかん》したとき、僕は初めてベラン氏の言の真実なることを知った。
その部屋は、すごく大きな部屋だった。恐らく艇内で一等広く取ってある部屋に違いない。室内には奇妙な形をした器械が林のように並んでいた。部屋の真中に、白い大きな台があって、その上に大きな硝子の壜《びん》のようなものが寝かしてあった。
その壜のようなものの中には、銀色に光る大きな団扇《うちわ》のような電極が、縦軸の方向に平行しており、それから壜の外へ長いピストンの軸のような金属棒が出ていた。
このまわりを白い手術着を着た十人ばかりの人物が囲み、息をつめて壜の中を見ていた。只ひとり、室の隅の椅子に坐って、身体を震わせていた女があった。よく見ると、その女は、縫工員のベルガー夫人だった。
「あの硝子器の中の電極の間に挟まれているものを見給え。あれがベルガー夫人がこの間生んだ嬰児《えいじ》だ」
ベラン氏が戸棚に掴《つかま》ったままで、身体を横にして僕の耳に囁《ささや》いた。
僕は氏が教えたところのものを見た。なるほど電極の間に挟っているものがある。それを見た僕は電気にうたれたように吃驚《びっくり》した。正に嬰児には相違なかったが、あるのは頭から胸の半分ぐらいであった。僕は、その切断されたような嬰児の身体を見ては、もう耐えられなくなって、戸棚の上から下に飛び下りようとした。
するとベラン氏の手が延びてきて、僕の腕をぐっと握った。
「目を放してはいかん。今だ、見て置くのは……」
僕は仕方なしに、再び硝子壜を見下ろした。二枚の電極が、先刻よりもずっと距離を縮めたようである。事実電極の間には、嬰児の首だけしか残っていなかった。
「まだまだ。目を放してはいかん」
ベラン氏は、痛いほど僕の腕を掴んでいる。僕はやむを得ず、怪奇なるその場の光景を見下ろしていなければならなかった。そのとき一方の電極が動いているのに気がついた。他方の電極は、嬰児の頭を上から押えているが、それは動かなかった。動く電極は、だんだん動いて、嬰児の頭を半分にしてしまったかと思うと、更に動いていって、やがて他方の電極にぴったりと合った。嬰児の身体は完全に消えてしまった。
取巻いていた人達は、ほっとした様子で互に顔を見合わせ、硝子壜の傍から放れた。リーマン博士がその人達の中に交っていることを、僕は初めて発見した。
だが一体これはどうしたというのであろう。こんな残酷なことがあるであろうか。二枚の電極は、嬰児の足の方から溶かしてしまったようであるが、そ
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