れにしても硝子壜の中に血液らしいものも水のようなものも溜《たま》ってないのは不思議だった。


   消えるベラン氏


「おい見たか今のを……。ベルガー夫人の幼児が、微粒子《びりゅうし》に分解されて地球へ向って送られたのだ。素晴らしい装置ではないか」
 ベラン氏は感動のあまり顔中をぴりぴり震《ふる》わせながら僕に囁《ささや》いた。
「それはどういう意味なのかね」
 僕にはさっぱり嚥《の》み込めない。
「分らん奴だなあ、君は。つまり立体テレビジョンの方式を解剖整形学に活用したものだと思えばいいのだ。とにかくおれは、こうして現場を抑えた以上は、今日こそリーマン博士に喰い下って、地球へ帰らせて貰うのだ」
 ベラン氏は、そういったかと思うと、大きな足音をたてて床にとび下りた。そして間の扉を開いて、リーマン博士とその助手たちが額を集めて何か議し合っている部屋へとび込んだ。
 僕は、戸棚の上に取残されたままだった。
 ベラン氏が、リーマン博士の胸倉《むなぐら》をとって、盛んに口説きだした様子である。何を喚《わめ》いているのか、僕のところへは聴えてこない。
 博士の助手たちが、ベラン氏をうしろから取押えて、博士から引放そうとした。しかし博士は手をあげて、それを停めたようであった。
 やがて博士とベラン氏とが、肩を並べて、かの大きな硝子壜のような器の中に立って、両手を盛んにふって話を始めた。
 そのうちに博士が一歩下って、うんと点頭《うなづ》いた。するとベラン氏が躍りあがった。それから博士の手を両手で握って、強く振った。
(おや、ベラン氏の申出を、博士は承知したようだぞ)
 僕は意外であった。
 するとベラン氏はその場に服を脱ぎ始めた。助手たちが傍に寄ってきた。そしてベラン氏が服を脱ぐのを手伝った。ベラン氏は一糸もまとわぬ裸体となった。
 博士は例の大きな硝子壜の一方の底を電極と共に抜いて待っていた。裸のベラン氏は助手に担《かつ》がれ、横になってその孔から硝子壜の中に入った。氏は中に長々と寝ながら、満足そうな笑みを浮べている。
 博士の手によって、電極がベラン氏の足の裏を押すように差込まれた。硝子の底蓋《そこぶた》が嵌《はめ》られた。接合面のふちに、グリースらしきものが塗られた。
 それから博士は、壁側に取付けられてある大きな配電盤の前へいって、計器を仰ぎながら、いくつかの小さい調整ハンドルを廻していたが、そのうちに手をハンドルから放すと大きなスイッチをがちゃりと入れた。その刹那《せつな》、硝子壜の中に、ぴちりっと紫色の火花がとんだ。それが見る見るうちに桃色の暈光《うんこう》となって壜内に拡ったかと思うと、やがて次第に色は薄れていった。ベラン氏は全く動かない。このとき僕はベラン氏の両の脚首が既にとけ、電極が両方の脛を押上げているのに気がついた。
 ベラン氏の身体は七八分のうちに、綺麗にとけてしまった。ベルガー夫人の嬰児の場合と同じことが行われたのだ。
 リーマン博士はやれやれというような顔をして、ゴムの手袋をぬいだ。頭に受話器をかけた一人の助手が、二枚の紙を博士に渡した。博士はそれを読んだが、その一枚を持って、硝子壜の向うにまだじっと坐っているベルガー夫人に見せて、何かいった。ベルガー夫人が、両手を胸の前にあげ、ほっとした思入れで肩をうごかした。
 僕は、さっきベラン氏がしたように、戸棚の上から、どさりと下にとび下りた。僕はそのまま尻餅《しりもち》をついた。起き上るのに大変骨が折れた。そして漸《ようや》く前を通りかかる博士に追いすがることができた。
「博士。今隣室で演ぜられたベラン氏の始末について説明していただきましょう」
 僕は辛《かろ》うじてそれだけいうことができた。そして腰ががくっとなったことは憶えているが、あとはどうなったか知らない。重なる怪奇現象に対して全身の勇気を奮って闘っていた僕は、遂に負けてしまったのである。
 その次に気がついた時は、僕は安楽椅子の中に身体を埋めていた。
「日本人には似合わず、君は気が弱いじゃないか」と声をかけられ、僕ははっとした。目の前に赤い葡萄酒の盃があった。
「これを飲んで、元気を出すさ」
 リーマン博士が、僕の手に盃を握らせた。僕は、そんなものを飲んでは恥だと思い、その厚意だけを謝《しゃ》して、盃を卓子《テーブル》の上に置いた。そして博士の顔を探した。
「博士。説明をしていただきましょう」
 僕は、前言を繰返《くりかえ》した。
 博士は、僕と一所に、同じ卓子を囲んでいた。そしていつものような峻厳《しゅんげん》な表情を続けていたが、やがて重々しく唇をひらいた。
「岸君。別に説明するほどのこともないが、君が見たとおり生物を微粒子にして空間を走らせ、やがて受信局で、元のように組立てるという器械なんだが、今日やったように長距離間で成功したのはまことに悦ばしい。ベラン氏もベルガー夫人の幼児も、無事ナウエンの受信局で元のとおり整形されたそうだ」
「えっ、あれが成功したのですか」
「そうなんだ。もう君も気がついていると思うが、宇宙旅行をするには、人間の生命はあまりに短かすぎる。そこで本艇においては、妻帯者を乗り込ませてあるばかりか、今後も艇内において出来るだけ結婚を奨励し、一代で行けなければ二代でも三代でもかかって目的を達するという信念を今から植付けて置こうと思い、それを実行しているのだ。また幼児や子供が、宇宙旅行のうちに、何か変った生長をするのではないか、それも確めたいと思っている。しかしそれにしても、もっと手取り早い旅行法が考えられなければならないと思い、かねて秘密に研究を続けていたのが、君がさっき見た微粒子解剖整形法だ」
 博士は、ここで言葉を切って、卓子の硝子板の下においてある宇宙図を指しながら、
「わしの今度の旅行の目的の第一は、前にも話したように、X宇宙族が宇宙のどのあたりまで侵入してきているかを確めることにあるが、第二には、今の微粒子解剖整形の装置の一組を月世界に、もう一組を火星に据付《すえつ》けることにあるのだ。これは非常に重大な計画であって、もしこれがうまく据付けられ、完全に働きだすとしたら、われわれはなにも年月の夥《おびただ》しくかかる宇宙艇などのお世話にならないでも、地球と月と火星の間を、数時間|乃至《ないし》数十分で旅行することが出来るわけだ。更に進んで、もっと遠い宇宙へも行くことが出来るようにもなるのだ。そういうわけだから、これは如何に重要なものであるか、君にも分るだろう」
 博士の説明をうけて、僕は感歎《かんたん》のあまり、首を前にふるばかりだった。博士は尚も言葉を継ぎ、
「ベランは火星以外に生物が棲んでおらぬなどといっていたが、宇宙は広大極まる、仲々そんなものではない。生物の棲んでいる星は、実に無数にある。その中で、わしが目をつけているのは、わが地球人類に対して既に挑戦的態度に出ていると信ぜられるところの彼のX宇宙族だ。これはわしのこれまでの研究によって推察すると、どうやら竜骨座密集星団系から出て来た非有機的生物――というと地球の学者たちは一言のもとに馬鹿なというかもしれないが、とにかく非有機的生物だと思われる。争闘はこれからだ。われわれ地球人類は、一刻も油断していられないのだ。今われわれは、ようやく宇宙旅行の先鞭《せんべん》をつけ、宇宙尖兵《うちゅうせんぺい》としてこうして大宇宙に乗りだしたが、既に時機が遅くはなかったかと心配しているのだ。X宇宙族は、智力においても勢力においても恐るべき奴だ。さて、これから先、どんなことが起るかもしれないが、あと一ヶ月ぐらいで、いよいよ月世界に上陸することが出来る筈だ。どうか君も、気を大きく持って、この天業に力をかしてくれたまえ」
 そういって博士は、大きな手をさしだして僕の手を握った。僕はしっかりそれを握りかえして、強く振った。そのとき僕はふと気がついて、博士にいった。
「そういうことになると、あのベラン氏は羨《うらやま》しいですね。すっかり本艇の微粒子解剖整形装置の詳細を見、その上自分でそれを体験して地球へ帰ったわけでしょう。彼は、新聞界空前のそのニュースを撒《ま》き散らして、全世界の人々を驚倒させるでしょう。新聞記者として、彼は世界一運のいい奴ですよ」
 と、僕は羨しくなって、そのことをいった。
 すると聞いていたリーマン博士は、苦笑《にがわら》いをして、
「いやそのことなら、そうは問屋《とんや》が卸《おろ》しませんよ。ベラン氏はなるほど安全に地球へ戻りましたが、今頃はもう牢獄の一室に収容されている筈です」
「えっ、それはなぜです」
「ベランは、ユダヤの謀者で、本当はシャストルというユダヤ系アメリカ人です。それですから今日はわざと直ぐ送り還《かえ》したのです。ベラン夫人ですか。あれはシャストルの助手にすぎませんが、一足先に別室に監禁してあります。油断大敵とは、よくいったものですなあ」



底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
   1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1943(昭和18)年7月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング