すこし事態は明瞭度《めいりょうど》を加えるだろうと思う」


   重力平衡圏《じゅうりょくへいこうけん》


 われらの居住区は、完全な防音装置が施されており、また換気装置は理想的なもので、充分軟くされた人工空気が送り込まれ、空気イオンも至極程よき状態に保たれてあったために、天空を遥かに高く飛んでいながらも、僕たちの生活は一向地上の生活とかわらない楽なものであった。
 だが、このごろになって、すこし妙なことが起り始めた。まず第一に身体が軽くなったことである。歩くにしても、肩に翼がついていてふわふわと飛べそうな感じが加わった。第二に、腰を下すのに、従来にないほどの力が要るようになったのは、ますます妙《みょう》な感じであった。別の言葉でいえば、雲の上に起伏《きふく》しているとでもいうか、身体に風船をつけているとでもいうか、とにかく妙なことになった。
 それから第三に、卓子《テーブル》の上に置いてある灰皿だの百科辞典などが、ひとりでにするすると卓子の上を走り出すことだった。
 その揚句《あげく》、下に落ちることもあったが、見ていると、金属で拵《こしら》えてある灰皿が、まるで手巾《ハンカチ》か紙かが落ちでもするようにゆっくりと落ちていくのに気がついた。が、そのときは、頭が変になったのではないかと思ったので、別にさわぎはしなかった。
 これを異変として、はっきりおどろきの声を出したのは、いつか倶楽部の壁にミミが吊り下げた水彩画の額が、どういうわけか、九十度横に曲ったまま、元の位置にかえりもせず、じっとしているのを見付けたときであった。
「おや。僕の目はどうしたかなあ、あの額は横っちょに懸《かか》っているが……」
 僕は顔面から血の気が退いていくのが、自分でもはっきり分った。
「そうだとも。昨日から、額はあのとおり横向きになっている」
 魚戸が、僕のうしろでいった。
「誰のいたずらか。人さわがせじゃないか」
 僕は、魚戸がやったのかと思って、うしろを振返った。魚戸は、パイプをくわえて、うまそうに喫《す》っていたが、
「誰のいたずらでもない。地球の重力がどんどん小さくなっていくからだ。一週間ほど前から、本艇の速力はぐんぐんあがり、地球からの距離は急速に大きくなっていく。その距離の自乗に反比例して、重力は小さくなっていくのだ。その上に、月世界が近くなって、その方の引力が、地球の重力とは反対に目に見えて顕著《けんちょ》になり始めた。つまり一切の物体が非常に軽くなったような勘定《かんじょう》だ」
 魚戸は、科学欄を永いこと受持っていた記者だから、時にむずかしい講釈をひねくりまわすくせがあった。僕にはよく嚥《の》みこめないが、本艇は地球を遠く離れたため、今まで下へ引張りつけていた重力が弱くなったということらしい。
「変な気持だねえ。身体を持ち扱いかねる」
「そうだろう。これからは気をつけていないと、滑《すべ》ってのめるよ」
「そうかね」
「あと十日も経てば、重力平衡圏へ入る筈だ。地球出発以来、最初の難関にぶつかるわけだ」
 魚戸は、得意になって語る。
「重力平衡圏て、どんなところだ」
「本艇は今地球からも引張られ、月からも引張られている。そしてその方向は反対だ。地球の引力はだんだん弱くなりつつあるし、月の引力はだんだん加わりつつある。やがて双方《そうほう》の引力の絶対値が等しくなるところへ本艇がはいり込むのだ。そのときは、本を上へ放り上げても、下へおちてこないで、空間の或るところにじっと停ってしまう。おれたちもやろうと思えば、ベッドもない空間に横になって寝ることが出来る。参考のために、君もやってみるかね」
 奇妙なことを魚戸の奴はいいだした。
「化物屋敷だねえ、そうなると……」僕は、ぞっとしていった。自然現象の驚異に対しては、従来あまり大胆になれない僕だった。
「下手をやると、本艇はうごきがとれなくなる虞《おそ》れがある。行動の自由をうしなって、前進もならず後退もならず、宇宙に文字どおり宙ぶらりんになるのだ。力の無いものは、永遠にそこに釘づけのようになる。但し地球と月の運行によって空間を引摺られていくには相違ないが、しかしもはや地球の方へ退《さが》ることも、月の方へ進むこともできなくなるのだ。やがてなにか君を愕《おどろ》かすことがやってくるかもしれない」
「あんまり真面目くさって、僕を脅すなよ。ひとのわるい」
 僕は悪寒《おかん》に似たものを感じた。
 それから四五日すると、誰も彼もが、急に足許がわるくなったように、床の上でつるりと滑ってはつんのめることが殖《ふ》えた。僕は一日のうち七回もころんだ。壁や卓子《テーブル》に頭をぶっつけること五回に及んだ。或るとき、ころんで起き上ったところへ、ちょうど魚戸がはいってきて、僕と視線が合った。
「おい魚戸
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