。ひどい目にあうもんだなあ。今日は瘤《こぶ》ばかりこしらえているぞ」
 と、こっちから声をかけると、魚戸は要慎《ようじん》ぶかい腰付で卓子につかまりながら、
「そういうが、君は男で倖《しあわせ》さ」
 という。
「なんだい、男で倖とは」
 僕は腰をさすりながら訊《き》いた。
「あのお腹の大きい縫工員《ほうこういん》のベルガー夫人ね。さっきころんだ拍子《ひょうし》に床の上にお産をしてしまったよ。飛び出した赤ちゃんは脳震盪《のうしんとう》を起すし、夫人は出血が停らなくて大さわぎだったよ」
 魚戸は、同情にたえないという目付で、そう語った。愛妻のイレネの身の上のことも考えているのであろう。もちろん僕も愕いた。
「で、赤ん坊はどうした」
「赤ちゃんは幸いにも生きている。しかし果して異状なしかどうだか、もうすこし生長してみないと分らないそうだ」
「そうか。気の毒だなあ。そして夫人は」
「ベルガー夫人の出血はようやく停った。絶対安静を命ぜられているが、しきりに赤ちゃんの容態《ようだい》のことを気にして、大きな声で泣いたり急に暴れだしたりするので、医局員は困っている」
「なぜ暴れるのかね」
「夫人は、掃除夫のカールが床に油を引きすぎたから、それで滑ったと思っているんだ。だから夫人は掃除夫のカールのところへ押掛けて首を絞めるのだといってきかないのだ」
「それはカールの罪じゃあるまい」
「もちろんカールには関係なしさ。もし罪を論ずるとすると、このように急に重力が減ってきたのに対し、艇長が何等の安全処置も講じなかったことにあるだろう」
「安全処置なんて、考えられることなのか」
「考えられるとも。いや、現に本艇にはその設備があるんだ。艇長がその使用開始を命じなかったのがいけないといえばいけないのだ」
「その設備というのは、どんなものか」
「人工重力装置さ。つまり人工的に、本艇に重力が強く働いていると同じ効果を与える装置なのさ。これがないと、重力や引力のない空間を航行するとき、われわれ艇員は全く生活が出来なくなるのだ。たとえば、壜《びん》の中にスープを入れたとしても、いつの間にかスープが壜の中から流れ出して雲のように空間に浮いて、ふらふら漂《ただよ》うようなことになる。室内の物品も人間も、しっかり縛《しば》っておかないかぎり、上になり下になり入乱れてごっちゃになって、仕事もなにも出来やしないだろう。だから、ぜひとも人工重力装置が入用なわけだ」
 魚戸は、新知識を僕に植えつけてくれた。聞けば聞くほど、本艇には面倒な仕掛が要《い》るのに一驚《いっきょう》した。それと共に、僕はこれまでにはそれほど深い興味を持っていなかった本艇の科学に対し新なる情熱が湧いてくるのを感じた。
 このつぎリーマン博士に会見のときは、そういう問題について質問の矢を放ってみたいと思ったことである。


   宇宙の墓地


 地球の上のことを引合いに出していうなら、ちょうど冬になってビルディングの中にスチームが通りだすのと同じように、本艇の中には人工重力の場が掛けられ始めた。
 魚戸の話によると、まだほんの僅かの人工重力しか掛っていないそうだが、それでもその効果は大したもので、滑ってころんだり卓上のものが動きだしたり、栓をするのを忘れたインキ壺《つぼ》からとびだした雲状のインキが出会い頭《がしら》に顔をインキだらけにするようなことは全くなくなった。大した力である。地球の上では、これまでに誰も重力の恩なんて考えた者はあるまいが、僕は今になって重力の恩に気がついた。
 或る日、僕たちが倶楽部で朝食を摂《と》りつつあったとき、遽《あわ》ただしくイレネが入ってきた。
「みなさん、お食事中ですが、至急おしらせして置かなければならないことがありますので、お邪魔《じゃま》に伺いました」
 と、イレネはいつになく慇懃《いんぎん》に挨拶をした。
 至急おしらせのこととは、何であろうか。僕たちはフォークとナイフを下に置いた。しかしイレネは、みなさんそのまま食事をお続け下さいともいわず、用件のことを話した。
「お気付の方もあることと思いますが、昨夜から本艇はすこし取込んでいます。艇員たちが忙しく通路を走ったり、物を搬《はこ》んでいるのをごらんになった方もあろうと思います。事の起りは、本艇の針路が一昨日あたりからだんだんと自由を失ってきたことにあります」
 イレネは、言葉を切って、唇をふるわせ、
「つまり本艇は、好まざる力によって、或る方向へ引かれつつあります。恰《あたか》も流れる木の葉が渦巻の近くへきて、だんだんとその方へ吸いよせられていくように……」
「宣伝長。事実を率直にぶちまけてもらいましょう。その方がいい」
 僕はイレネが事件の本態にふれるまで温和《おとな》しく待っていることはできなかった。イレ
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