ねあがり、ざんぶと水中におちたのだ.あそこは、とても逃げられるようなところではない。尖《とが》った岩の間を縫《ぬ》って、冷たいまっくろな海水が、渦をまいて行ったり来たりしている。この世の地獄みたいな洞穴なんだ。怪塔王とて、とても助りっこはないのだ」
博士は、怪塔王の死をかたく信じている。
帆村探偵は、大きくうなずき、
「なるほど、そこに見える岩の割れ目のむこうは、そういう恐しいところなのですか。しかし悪運つよい怪塔王のことですから、ひょっとするとふしぎに一命を助っていないものでもありません。これから僕は谷底へ下りて、怪塔王の死体が浮いていないか、調べてみます」
滑《すべ》る断崖《だんがい》
1
帆村探偵は、あくまで怪塔王の死をつきとめる決心でありました。いま大利根博士の語ったところによると、怪塔王は岩の上に落ちて体をひどくうち、それからまっくろな海水が渦をまいている淵《ふち》へおちたといいますが、帆村は、一応どうしても自分でしらべる気です。
「大利根博士、では、案内してくださいませんか」
「そうだね、わしはひどくつかれているのだが――」
と博士は口ごもりましたが、やがて思いなおしたように、
「うん、よろしい。外ならぬ遠来の珍客のことだから、案内してあげよう。こっちへ来なさい。ここから下りるのだ」
博士は魚油灯をもって先に立ち、はやそろそろと岩根づたいに下りていきます。
帆村探偵は、はじめて見るおそろしい断崖に、目まいを感じながら、博士につづいてそろそろと下りました。
博士は、なかなか元気で、先に立って、するすると下りていきます。ともすれば帆村は遅れてしまいそうです。
(博士は元気だなあ。それに、この洞穴のことをよく知りぬいているようだ)
帆村は、心の中でひそかに感心いたしました。
博士の魚油灯は、すでに断崖を下りきって、洞穴の底にある岩のうえで、うすぼんやりした光を放っています。
このとき、博士の目がきらりと光りました。博士の目は、今しも岩根につかまって、下りることに夢中になっている帆村の上に、じっととまっていました。帆村は、博士がそんな恐しい目つきをして、こっちを睨《にら》んでいるとは気がつきません。
「あっ、しまった」
一声、帆村が叫びました。
彼は、濡《ぬ》れた岩根を、あっという間に足をふみすべらし、ずるずるどすんと、博士の立っている足もとまで、すべりおちました。
2
どうも腑《ふ》におちないのは、大利根博士のそぶりです。
いまも、帆村が足をふみすべらせ、あっという間に博士の足下まで岩根をすべりおちたから、博士もはっと気をのまれて、それっきりになりましたが、もしもあのとき、帆村が岩根をすべりおちないで、断崖につかまってぐずぐずしていたら、博士は次にどんな怪しいふるまいをしたかわかったものではありません。そういえば、あのとき博士の右手は、すでに腰のあたりへのび、なにかピストルでもさぐろうとしたらしいのです。
ずるずると博士の足下にすべりおちた帆村探偵の幸運を、彼のために祝ってやらねばなりません。そうです、全く油断のならない大利根博士と名乗る人物です。あの利口な帆村探偵も、まだそれと気がついていないのでしょうか。あたりには、味方の姿もない恐しい洞穴の中です。一度は危難をまぬかれた帆村のうえに、これからどんな禍がふって来ることでしょうか。それを思うと気が気ではなくなります。
「大利根博士、僕は、いますこしで腰骨を折るところでしたよ。あ、おどろいた」
博士は、急に作り笑顔になって、
「全くあぶないところだから、いつも足下に気をつけていたまえ」
「はあ、ありがとうございます。なに、もう大丈夫です」と、帆村は博士の横に立ちあがり、
「そこでおたずねしますが、怪塔王が体をぶっつけた岩というのは、一体どの岩でしょうか」
「ああ、その岩かね、――」博士は口ごもりながらあたりをきょろきょろながめ、「ええその岩というのは――そうだ、たしかあの岩だったとおもうよ」
そういって博士が指さしたところを見ると、二人の立っているすぐ目の前に、渦巻く海水にとりまかれた一つの小さい島のような平な岩がありました。
3
怪塔王が体をうちあてたのはあの岩だと、大利根博士が指さしましたので、帆村が見ると、それはものすごい潮の流にとりかこまれた小さい島のような岩礁でありました。
「ああ、あれですか。ものすごい岩ですね。怪塔王の体は、あの岩にあたって、それからどの辺へ跳ねおちたのですか」
帆村探偵は、なにげなしにたずねました。
「ううん、それはこっちだ。あの岩礁の左の方だ」
帆村探偵は、それを聞くと、ふしぎな気がしました。怪塔王の体が岩の割れ目から落ち、目の前に見える岩礁につきあたったとすると、もし、はずみをくらって、更に潮の流へとびこんだものとすると、どうしても岩礁の向こうにおちるはずです。それが左におちたとは、ふしぎなこともあればあるものです。
つぎに帆村は、大利根博士に頼んで、魚油灯をかしてもらいました。そして岩礁の上をそれで照らしてみました。帆村の考では、岩礁の上に、怪塔王が体をうちあてたときには、きっと血を流したことであろうとおもいました。その血が見つかるといいと思ったのです。
しかし、ふしぎにも、血らしいものは、岩礁の上に見あたりません。そうかといって、潮が洗い去ったようでもありません。
帆村は、小首をかたむけました。
(はてな、これは変だぞ!)
帆村は、ふしぎなかずかずの疑問を大利根博士にたずねようかと思いました。――が、待てしばし!
(どうも、この大利根博士というのが、不思議な人物だぞ。はて、一体どうしたというわけだろう)
帆村は、ようやくそのことについて思いあたりました。そう思って、前からのことを思いかえしてみると、怪しいふしぶしがたくさん出てきます。
(これは油断がならないぞ)
4
油断のならない洞穴の大利根博士です。帆村探偵は、夢から覚めたように、おどろきました。
そういえば、この大利根博士という人物が、怪塔王のおちた岩の割れ目から入れかわりに出てきたのが変です。いや、それだけではありません、帆村探偵が声をかけたときの、あのへどもどした返事のしかたは、どうも怪しい。
(さあ、この大利根博士は、ただ者ではないぞ。これはたいへんなことになった)
博士の話によると、怪塔王は岩礁の上におちたというのに、血も流れていません。渦を巻く海水の中を見ましたが、怪塔王の死体も見えなければ、その持物も何一つ浮いていないではありませんか。
怪塔王が死んだと思ったのは、あの岩の割れ目から、この洞穴の中へ墜落したことと、それから間もなく起った悲鳴でありました。今のところ、それ以上、怪塔王の死をものがたるたしかな証拠はないのです。
(これは油断がならないぞ。下手《へた》をすれば、怪塔王は、まだその辺に生きている! その上、この怪しい大利根博士だ。そして場所は、勝手もわからぬものすごい洞穴の中だ!)
さすがは帆村探偵です。すぐれた推理をたてて、ついに自分の背後にせまる大危険を察したのでありました。
(これから、どうしよう?)
探偵が、ぎくりとして、今後のことを考えたその瞬間でした。
ぷすーっ。
妙な低い爆発音が、帆村のすぐうしろで聞えました。
「あっ――」
と思って、帆村がふりかえってみますと、いま音のした岩の上から、黄いろい煙がもうもうと立っているではありませんか。とたんに、一種異様の悪臭《あくしゅう》が、鼻をつきました。あ、毒ガスです!
5
大利根博士は、煙の中に平気で立っています。その顔には、いつどこからとりだしたのかガスマスクがはまっています。
「ああっ――」
帆村探偵は、のどに、目に、はげしい痛みをおぼえて、両手でめちゃくちゃにかきむしりました。
卑怯な毒ガス攻撃です。
いまさら卑怯だといってもはじまりませんが、大利根博士から毒ガスのごちそうをうけようとは、今の今まで思っておりませんでした。
「ふふふふ。どうだ、苦しいか」
マスクの下からひびいてくるその声!
「あっ、貴様は怪塔王だな。こほん、こほん、こほん――」
帆村は、岩の上にたおれて、はげしく咳《せき》をします。貴様は怪塔王だなと叫んだその声は、まるでのどをやぶって出てきたような細いしゃがれた声でありました。
大利根博士が、いつの間に怪塔王の声色《こわいろ》をつかうようになったのでしょうか。
博士は、いやに落着きはらって、転げまわっている帆村のそばへやってきました。
「こればかりの薄いガスをくらって、そんなたいそうな苦しみ方をするなんて、なんて弱虫なんだろう。これからの探偵は、ガスマスクぐらい、しょっちゅう持ってあるくがいいぞ」
博士は、靴の先で帆村の体を力まかせにけとばしました。なんというひどいことをする博士でありましょう。
「おい帆村探偵。こんどというこんどは、貴様を殺してしまうぞ。貴様くらい、わしの邪魔をする奴はないからなあ。いままで生かしておいたのを、ありがたくおもえ」
博士は、すっかり怪塔王になりきってしまって、腰のあたりから、銀色の筒をとりだした。どうやらこれは、形のかわった殺人光線灯らしいです。
帆村探偵はどうなりましょうか?
最大の謎
1
洞穴の内の岩礁のうえに争う大利根博士と帆村探偵! 毒ガスが黄いろいもやのように漂っているなかに、怪塔王の声を出す大利根博士は、殺人光線灯を片手に帆村探偵の姿をもとめています。
「あ、そこにいたな」
魚油灯が大きくゆらいで、岩礁のうえに腹匐《はらば》いになっている帆村探偵をみつけました。
もう駄目です。帆村探偵の一命は、風前の灯火《ともしび》も同様です。殺人光線が帆村の方にむけられ、そしてボタンがおされると、もうすべておしまいです。
帆村が岩礁のうえに腹匐いになっていたのは、毒ガスからすこしでものがれるためでありました。下には荒潮がぼちゃんぼちゃんと岩を洗っていまして、そこにすこしばかりの風が起っていました。だから重い毒ガスは、下に溜《たま》ろうとしても、波のためにあおられ、吹きあげられてしまいます。そしてどこを潜《くぐ》って来るのか、一陣の風がすうっと吹いて来るのです。どこまでも沈着な帆村探偵は、こうしたわずかの安全地帯をもとめて、辛《かろ》うじて息をついていたのに、いまや大利根博士の持つ殺人光線灯が、最後のとどめを刺そうと狙っています。
不意に帆村は、ぽんと蹴られました。
「あ、痛!」
思わず彼は、声を出してしまいました。
「ふふふ、まだ生きていたか。いよいよ殺人光線灯を食《くら》って、往生しろ!」
「待て! 最後に、ちょっと聞きたいことがある」
「なんだ。早く言え」
「貴下は大利根博士ですか、それとも怪塔王ですか」
「そんなことは、どっちでもいい。ほら、もう念仏でも唱えろ」
もう余裕はありません。帆村の体は、ごろりと一転して、どぶんと荒潮のなかにおちてしまいました??
2
「あっ、落ちた!」
大利根博士は、思いがけないできごとに、殺人光線灯のボタンをおすことを忘れて、帆村の落ちた荒びる水面をきょろきょろとながめました。
大きな水音は、しばらく洞穴のなかを、わぁんわぁんとゆりうごかしていましたが、やがてそれも消えてしまいました。
「ど、どこへ行ったんだろうか。溺《おぼ》れてしまったのか、それとも渦にまきこまれてしまったかな」
ぼんやり黄いろく光る魚油灯を、海水のちかくへずっとさしだして見ましたが、帆村の頭も見えず、水を掻《か》く音さえきこえませんでした。荒潮のなかに落ちた帆村は、そのままどこかへ姿を消してしまったのです。
とうとう帆村は、浪にのまれて溺れ死んでしまったのでしょうか。それとも何所《どこ》かに生きているのでしょうか? 洞穴のなかを、荒潮は大臼《おおうす》をひきずるような音をたて、あいかわらずはげ
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