者がいなかった。
 それと見定《みさだ》めたうえで、虎船長は、こえをはりあげていった。
「なにごとも、自分のおもいどおりになるものじゃないのだ。全力をつくしても、そこには運不運というやつが入ってくる。時に利のないときにも、かならず突破しなければならぬとおし出していくのは、猪武者《いのししむしゃ》だ、匹夫の勇だ。すすむを知って、しりぞくを知らないものは、真の勇士ではない」
「じゃあ、船長は、どうしろというのですかい」
 若い船員は、虎船長の長談議にしびれを切らして、こえをかけた。
「だから、わしはお前たちに、かんがえなおせというのだ。あんな不利な映画まで撮ったノルマンという船長は、只者《ただもの》ではないぞ。汽船《きせん》だって、ノールウェー汽船といっているが、そうじゃあない。ここは、こっちの負けだ。こっちに油断があったのだから、仕方がない。負けを負けと承知して、しばらく運とともにながれてみようじゃないか」
「運とながれるって、船長、どうしろというのですか」
「つまり、しばらくノルマンのいいなり放題になっていることさ」
「ううん、癪《しゃく》だなあ」
「そうして様子をうかがっていれば、そのうちに、むこうにきっと、油断ができるにちがいない。そのときこそは、わしが号令をかけるから、そこでみな立って、日東健児の実力をみせてやるのだ。わしの好きな大石良雄はじめ赤穂四十七義士にも、時に利あらずして、雌伏《しふく》の時代があったではないか」


   サイゴン港


 虎船長の説得が、功を奏して、さしもの平靖号の若者たちも、別人のように、しずかになった。
 竹見水夫も、妙にはにかんだようなかおをして、ふたたびノーマ号への使者となって、ボートにのって出かけた。
 船長ノルマンは、竹見の口上をきいて、わがことなれりと、大よろこびだ。
「うわっはっはっ。はじめから、あっさり、それを承知すればいいのに。つまらんことで、いい加減、手数をかけやがった。さあ、おくれた船足をとりかえして、先へいそごうぜ」
「はい、はい。心得ました」
 一等運転士は、操舵《そうだ》当番へ、大ごえで進航命令を下した。それと同時に、平靖号へも、全速力で、ノーマ号の先登《せんとう》に立って、ドンナイ河の河口をさかのぼるようにと、信号旗を出した。
 目的地のサイゴン港は、ドンナイ河をさかのぼること六十キロのところにある。つまり、陸岸にはさまれた河のみなとで相当まがりくねっている。だから、港の中は、たいへんおだやかである。軍港はすこしはなれたところにあるが、こっちの港には、大小おびただしい数の汽船が、安心し切ってぎっしりと舷と舷とをよせ合って、碇泊《ていはく》している。
 平靖号は、後から監視の目を光らせているノーマ号からの指令にしたがって、なにごとにもさからわず、命令どおり忠実に港へ入っていった。連日みたし切れないむねを持てあましていた平靖号の船員たちも、異色ある亜熱帯地方の風物が、両岸のうえにながめられるようになって、すこしばかし、なぐさめられた。
「いよいよ、やってきたぜ。あれみろ、妙なかっこうの寺院みたいなものが見えらあ」
「ふん、あれはノートル・ダムだろう。おれたち俘虜《ふりょ》ども一同そろって、はやく武運をさずけたまえと、おいのりにいこうじゃないか」
「やかましいやい。捕虜だなんて、おもしろくねえことを、いうもんじゃない」
 そのうちに、両船は相前後して、投錨《とうびょう》した。お互いに、すねにきずをもっていることとて、仏官憲の臨検《りんけん》を、極度に気にした。だが、そこはどっちも、相当のしたたかもののことだから、なんとかかんとかいって、うまく仏官憲を丸めて、退船してもらった。狐と狸とで、同じ人間を化かしっこしたようなものだった。臨検官は、御丁寧にも二重に化かされていながら、なんにも気がつかないというのだから、まことに御苦労さまな次第だった。
 怪人ポーニンが、平靖号にのりこんできたのは、その夜《よ》ふけてのことだった。
 丁度《ちょうど》虎船長は、明日積荷を売るについて、その準備に、帳簿と書類の間にうずもれて、きりきりまいの最中だった。そこへ、当直の二等運転士が、注進のため、船長室へとびこんできた。
「船長。いよいよ来ましたぜ。船長ノルマンが、七八人ひきつれて、船長に会いたいといってやってきました。竹見の奴も、いけしゃあしゃあと、案内に立っていやがるんです」
「なに、もうノルマン一行が来たか。おい、事務長。ここはいいから、お前がすぐいって、応接しろ」
 そういっているところへ、ノルマン以下は、竹見を先に立てて、つかつかと、船長室へふみこんだ。
「おい、竹。どれが船長だ」
 竹見は、唇をぎゅっとかんで、無念そうにノルマン船長の命令を、きいている。
「そこにすわっているのが、虎船長です。両脚がないんだから、椅子から下りて、気をつけをしろなどとは、いわないようにねがいますよ」
「ふん、そうか。わしは、足のない船長に、用事をいいつけようとはおもわない。新しい船主のフランス氏も、同じことをいっていられるよ」
 ポーニン氏は、眼をぎらぎら光らせながら、虎船長の、こしから下を、見ていたが、
「なるほど、これじゃあ、船長のやくめをやってもらうのは気のどくだ。よろしい。この船は、貨物ぐるみ、一千五百フランで買うことにして、このロロー氏を、新たに船長に任ずる。よいかな、虎船長とやら」
 よいもわるいもない。虎船長は、フラン紙幣をうけとって、その代り、船長の服と帽子とを、ロロー氏に手わたした。
「たしかに、引きうけました」
 と、ロロー氏は、にこにこがおでいって、虎船長の手をにぎった。ロロー氏というのは、外でもない。警部モロの変名だった。


   新船長


「ええ、船主のフランスさま。この船が、つんでいる雑貨は、どのくらいの利益で、売りはらえばいいですかなあ」
 警部モロは、虎船長がまだ、しょうちしたともいわないさきから、もう船長気取りで、船主となったポーニンに、相談をかけた。
 虎船長も、さすがに、ゆがんだかおで、この場の成行《なりゆき》をじっと見おくっているばかりであった。だから、若《わか》い船員たちは、或る者は、紙のように白い顔となり、また或る者は朱盆《しゅぼん》のように、真赤な顔になっていた。一等運転士が、それをしきりに、止めている。
 フランス氏を名乗るポーニンは、にやりにやりと、あたりをながめまわし、
「いや、本船の積荷を売りはらうことは、いずれゆっくり、かんがえることにして、まず大いそぎで、この積荷を下ろしてもらいましょう」
「へえ、すぐというと、今夜にもといういみですか」
「そうです。夜分の荷役《にやく》は、なかなかむずかしいというかもしれないが、やってやれないことはない。さあロロー船長。はじめて船長になったあなたのうでだめしだ。すぐはじめてください」
 ポーニン氏は、平靖号の荷を下ろすのを、たいへんいそいでいる様子だ。
「下ろしただけで、いいのですか。そんならやりましょうが、下ろしたあとで、船員たちの労をねぎらう意味で、酒をのませてやってください」
 と、新船長さんは、なかなかぬけ目がない。他人のふんどしで、相撲をとるのたぐいであった。
「酒? 酒はのませるが、もっと後のことだ」
 ポーニンは、難色《なんしょく》をしめした。
「もっと後とは、いつのことですか。酒なんてものは、はやい方がいいのだが……」
「それは、私がゆるしません。酒をのめば、仕事をする力がなくなる。ここはなんでも、私の命令どおり、まず雑貨をいそいで下ろし、それに引きつづいて、セメントをいそいでつみこんだ上で、酒宴《しゅえん》をゆるすことにしましょう」
「ははあ、セメントを、はやくつむことが必要なのですね。どうして、そんなにセメントをはやくつみこまなければならないのですか」
 警部モロらしい質問のもっていきかたであった。
「それは、こっちに必要があるからだ。そうすれば、ロロー船長、あなたのもうけも、うんとふえる」
 そうはいったが、それは返事になっていないようであった。
「私も、大金儲けはしたいですがね」と、警部モロは、わざとにやりと笑顔をつくり「だが、船長となった以上は、船員の厚生福利をかんがえてやらねばなりませんでねえ。まるで牛馬か人造人間のように、部下を使役することは、できません。もっともこれが船火事になったというような非常時なら、べつですがね」
 船長ロロー役の警部モロは、下心《したごころ》があって、なかなか怪人ポーニンの意にしたがわない。
 ポーニンとしては、ロローに金もはらったことだし、今さら予定を変えることもできないので、だんだん船長ロローにひきずられていく形となった。
「うう、こまったやつだ」
 と、ポーニンは首をふって、
「おい船長。われわれは、いま事業のうえで、非常時に立っているのだ」
「どうも、わかりませんね。雑貨をセメントにつみかえることが、なぜ非常時なんですか。私は船長として、部下にたいし、わけのわからないことに、無闇《むやみ》に力を出せとは、命令しかねます」
「どうも、こまったやつだ」
 と、さすがの怪人ポーニンも、ここでいらだたしさを、かくすことができなくなってしまった。
「じゃあ、仕方がない。おい、船長ロロー。君だけに、わけをはなそう。他の者は、ちょっと、この部屋から、出ていってくれ」
 といって、ポーニンは、虎船長をはじめ余人を、ことごとく去らしめ、そのうえで、なおもこえをひそめて、モロにいうには、
「君、こまるじゃないか。すこしは、こっちのむねの中《うち》を察してくれなくちゃ。日ごろ、あたまのいい君にも似合《にあ》わないぜ」
「一体どうしたというんです。そのわけというのは」
「あべこべに、取調べをうけているようなかっこうだ。いやだね」
 と、ポーニンは、あごへ手をやって、
「じつは、こうなんだ。私が今、うけおっている仕事というのは、海の底に、潜水艦の根拠地をつくるという大仕事なんだ」
「ええっ、海のそこに、潜水艦の根拠地を? 一たいそれは、どこの国の計画なんですか」


   身辺《しんぺん》の危険


 怪人物ポーニンと警部モロとの間に、どんな程度のはなしがとりかわされたかは、つまびらかでない。が、とにかく二人は、間もなく平靖号の船長室から、至極仲がよさそうに、すがたをあらわした。
 もとの虎船長、つまり虎松《とらまつ》となにか無駄話をしていたらしいノーマ号の船長ノルマンは、これを見ると、立ち上って、
「どうしました。荷あげのはなしは?」
 といった。ノルマン船長も、ポーニンには一目も二目もおいているらしい様子だ。ポーニンは、にやりと、うす気みわるいわらいをもらし、
「ふふん、どうもこうもない。計画したことは、途中でどんな邪魔がはいろうと、かならずその計画どおりにやりとげるのが私の主義だ」
「すると、すぐ、この平靖号の荷役がはじまるというわけですな」
「もちろん、そのとおりだ。君の船からも、出せるだけの人数を出して手つだわせてもらおうかい。あの方の仕事は、一日でもはやくかからないと間に合わないからね」
「はい、わかりました。では、帰船して、力のあるやつを、できるだけたくさんかり出しましょう」
「うん、そうして呉《く》れ、私も一しょに、君の船へいこう。ほかに、すこし相談したいこともあるから……」
 怪人物ポーニンは、警部モロや、虎松以下の乗組員におくられ、船長ノルマンとともに、平靖号を退船した。
 あとで、平靖号のうえでの、ひそひそばなし。
「なんだい、あの白人は。いやに、すごい目を光らせていたじゃないか」
「あいつが、この船を買って、セメントをつみこむんだとさ。どうも、この平靖号もおかしなまわりになってきたのう」
「虎船長にもう一度いって、今夜のうちに、サイゴンからずらかることにしちゃ、どうかな」
「そうもなるまい。ノルマンのやつは、どうやらこの土地でも、にらみが利く男らしいから、うっかりしたことはできない。まあ、虎船長のはなしじゃないが、こちとら
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