、わしに平靖号へ、つかいにいけというのですかい」


   憎むべき恫喝《どうかつ》


 船長ノルマンがとつぜんいいだした用件というのは、竹見に平靖号へつかいにいけという意外な用事だった。
「そうだ、平靖号へいって、船長に、こっちの用件をつたえてくれ。その用件というのは、平靖号はこれからサイゴンに入港し、貨物を全部売りはらうか下《おろ》すかして、そしてあらためて新しい貨物をつんで出航してもらいたいのだ」
「なんです、それは……」
 竹見は、急にノルマンの言葉がのみこめないという風だった。平靖号の積荷を、そう勝手に下ろしたり、変えたり出来るわけのものでない。
「はやくいえば、サイゴン港において、平靖号をやといたいのだ」
「ああ、雇船《やといせん》となるのですか。そいつは駄目だ」
 竹見は、首を左右に振った。平靖号には、特別の使命がある。それをノールウェーの汽船なんかの船長に雇われて、航海をつづけるなんて、そんなことは出来ない。
「やかましいやい」船長ノルマンは、地金《じがね》を出して、厳しい口調で竹見をどなりつけた。
「貴様に平靖号をやとうから承知をしてくれなどといっているのじゃない。むこうの船長に、こっちの命令をつたえりゃ、それで貴様の役目はすむんだ」
「命令? 平靖号がそんな不法な命令を聞く必要がどこにあるものですか」
 船長も竹見も、どっちもかおをこわばらせて、言いあった。
「これは命令だ。このノルマンの命令なのだ。平靖号の船長が、それを聞かないといったら、こういってくれ。“しからば、こっちは、お前の船が、中国人を装った日本人の乗組員でうごいていることを、むこうの官憲に知らせてやる。こっちには、それを証拠だてる映画があるぞ”と、そういってやるのだ。映画のことは、貴様に見せておいたから、どの位の値打のある映画だか、貴様から、よくはなしてやるんだ」
「それは脅迫《きょうはく》だ。恫喝だ」
「ふん、なんとでもいえ。わしは、一旦決心したことは、やりとおす主義だ。さあ、これからすぐ用意をしろ、本船は、間もなく平靖号に接近して、停船信号を出す」
 竹見は、なにもいわなかった。いっても無駄であることが、よくわかったのだ。船長ノルマンは、おもったよりすごいやつであった。一目で、平靖号の秘密をさとり、そしてそれを利用するため、その重大光景を映画にとっておいて、今それをつかおうとするのだった。
 竹見は、ノルマン船長の命令どおり、つかいにいくしかなかった。
「仕方がない。じゃあ、平靖号へつかいにいくことにします」
 と、わるびれずにいった。
 それを聞いた船長ノルマンは、大よろこびであった。早速彼は電話器にかかって、平靖号への接近を命令した。船は、すぐさま針路をかえ、そしてスピードを高めた。そしてヤードに新しくあげた信号旗をびらびらさせながら、平靖号の方へ近づいていった。
 竹見は、身軽にふなばたに立って、近づく平靖号を、じっと見下《みお》ろしていた。
 船長ノルマン、なぜきゅうに、平靖号への使者を出して、雇船を申し出たのであろうか。
 これより一時間ほど前、船長は秘密符号から成る電報をうけとった。その電文によると“サイゴン港で、急に貨物船を雇う必要ができたから、海上において、至急、貨物船をさがしてくれ”といういみのことがしるされてあった。発信人の名は、もちろん秘密符号でしるされてあったが、それを解いてみると、ポーニンと出た。
 ポーニン!
 ポーニンといえば、フランス氏と仮りに名をかえ、サイゴンでしきりにセメントを買いこんでいるあの怪人物だった。
 汽船ノーマ号の船長ノルマンと、怪人ポーニンとは、こんど始めての取引ではなかった。その間をあらえば、おどろくべき両人の深い関係があらわれてくるであろう。
 それにしても、奇怪さを倍加したのは、ノルマン船長である。ノールウェーの汽船が、ソ連の密使といわれるポーニンとの間に相当ふかい連絡があるというのは、一たいどうしたことであろうか。
 水夫の竹見はおもいがけなく、ふたたび平靖号の甲板をふんだ。
 同志たちは、いずれも竹見を歓迎してくれた。そして、彼が火薬船だと知ったのは、どういうわけかなどと、質問をかけられたが、竹見は、それにはこたえず、虎船長のもとへいそいだ。
 虎船長は、それこそ猛虎が月にほえるような大きなこえを出して、ノルマンの無礼極《ぶれいきわ》まる命令を一蹴《いっしゅう》した。


   奇妙な相談


 竹見は、虎船長とノルマンとの間にはさまって、まったくこまってしまった。
「船長。ああいう場面を撮影されちまったんですから、サイゴンに入港するとたんに訴えられ、そこでそのまま拿捕《だほ》されてしまいますぞ」
「いや、われわれ日本人は、東洋水面において、他国人から威嚇《いかく》される弱味は、なんにも持っていないんだ」
 虎船長は、きっぱりとそういって、ノルマンの申入れをしりぞけた。このことは、早速ヤード上の信号旗によって、船長ノルマンへ通じられた。
 すると、折かえしノルマンから、返事がおくられてきた。
「例の映画を、平靖号の行くさきざきへ配布して、寄港を妨害するがよいか」
 これに対して、平靖号からは、
「勝手にしろ、船長ノルマン」
 と、やりかえした。そして虎船長は、ノーマ号の火薬に、何とかして火をつけて撃沈させる工夫はないものかと、思った。
 すると、またもや、ノルマンからの信号がやってきた。
「では、已《や》むを得ない。貴船は、あと五分ののち、撃沈されるであろう。嘘だと思うなら、貴船の左舷前方の海面を、仔細《しさい》に観察してみるがいい」
 すこぶる気味のわるい警告であった。虎船長は、すぐさまこのことをしらべるよう、命令した。
 ところが、間もなく伝声管が鳴って、船橋から、たいへんな報告がとどいた。
「船長。潜水艦がいます。ノーマ号から注意のあったとおり、本船の左舷前方、わずか五百メートルのところに、潜望鏡が見えます」
「なに、潜水艦が、本船を狙って五百メートルの近くに……。うむ、そうか」
 虎船長は、身体をふるわせて、いきどおったが、どうすることもできない。ノールウェーの汽船だというノーマ号が、潜水艦と結んでいるなんて、へんなことだ。すると、ノーマ号はノールウェーの汽船ではないのかもしれない。
 潜水艦の襲撃をうけて、ここで沈没したのでは、せっかくここまで出かけた平靖号の使命は、それこそ文字どおりの水の泡となってきえてしまう。虎船長は、無念やる方なく、しばし黙考していたが、しばらくして、幹部を呼んで評定《ひょうじょう》を開いた。その結果、あらためてノーマ号に対して、信号を送ることとなった。
 信号旗は、三度ヤードのうえに、するするとあがった。
「貴船の申入れを大たい諒承《りょうしょう》した。くわしい返事は、水夫竹見を通じて申入れるから、しばらくまたれよ」
 事実上、平靖号は、まんまと船長ノルマンの毒牙《どくが》に、かかってしまったわけだった。南シナ海方面で大いにあばれるつもりだった仮装中国汽船の平靖号も、ついにつまらない運命におちこんだ。そして水夫竹見は、虎船長の返事を持って、再びノーマ号へ、かえっていくことになった。
 ここではなしは、サイゴンに飛ぶ。
 怪人ポーニンは、フランス氏と仮称して、モンパリにおさまっていた。セメント会社の社員に化けている、警部モロは、ポーニンの室の前に現われ、とびらをたたいた。ポーニンがモロを呼びつけたのであった。用件は、多分例の安物のセメントの買いつけのことであろうとおもわれた。
「やあ、フランスさん。さっきはお電話を、ありがとうございました。急なお呼びは、何の御用ですか」
 と、警部モロは、商人らしい口のきき方をした。
 すると、ポーニンは、いやににこにこ顔で、
「おいそがしいところをよびつけて、すみませんなあ。じつはおり入って、あなたに相談があるんです」
「はあ、セメントの値段を、もっとまけろとおっしゃるのですか」
「いや、その話は、べつです。後でしましょう」
「ははあ、セメントのはなしでないというと、はて、どんなことでしょうか」
 警部モロは、ポーニンが何をいい出すかと、非常に興味をおぼえた。
「いや、外でもないが、あなたに大金儲けをさせたいんです」
「大金儲け? ほう、この私にですか」
「そうですとも、それには、あなたに、今つとめているセメント会社をやめてもらって、その代り、私の所有船の船長になってもらいたいのです」
「えっ、セメント会社の社員をやめて、船長になれというんですか」
「私のもうけの二割を、あなたに提供します。数十万フランにはなるでしょう」
「一体その船は、何という船ですか」
「私が買う以前は、平靖号という船名を持っていた中国の貨物船なんです」


   勇士の途《みち》


 平靖号のうえでは、水夫竹見をノーマ号におくりかえして、船長ノルマンの申入れを承諾することに決していながら、なおも議論は、沸騰《ふっとう》した。
「ノーマ号に屈服するなんて、なにがなんでも、あまり情けないことです。船長、わが平靖号が日本を出発するときの、あの天をつくような意気は、どこへおとしてしまったんですか」
「かりそめにも、ノールウェーの一汽船のため、あごでつかわれるとは、日本男児のはじです。あとのことはあとのこととして、サイゴンへ入らないうちにノーマ号の中へ斬りこんでは、どうでしょう」
「そうだ。それがいい。平靖号をノーマ号のそばへ持っていって、いきなりぶっつけるのもいいとおもう。竹見のはなしによると、むこうの船は、火薬船だということだから、こっちからぶっつけたとたんに、火薬が爆発して、船長ノルマンはじめ船もろともに、空中へふきあげられてしまうだろう。ねえ、船長。それをやってみようじゃないですか」
 なにしろ血の気が多くて、祖国日本をとびだした連中のことだから、平靖号が、ここでノールウェー汽船の雇船《やといせん》になっておわるというのでは、躍る血潮の持っていきどころがない。だから一つの議論が、さらに二つの議論を生むという調子で、船長室の中は、われるようなさわぎとなった。
 虎船長は、若者たちの、熱血あふるる言葉を、じっと目をつぶって、聞いていた。事務長その他、高級船員は、むしろ、若者の留《と》めやくにまわったのであるけれど、自分たちとても、もともと胸中にたぎる武侠精神《ぶきょうせいしん》の所有者だったから、あたまから、若者たちをしかりつけるわけにはいかない。もうこの上は、虎船長の裁断《さいだん》をまつよりほかに、手段はなかった。このとき船長は、やっと両眼をぱっと開き、一座をずっと見まわすと、
「おう、聞け。さいぜんから、お前たちのしゃべっていることは、わしのこの胸の中に、ちんちん煮えたっているものと、全く同じことじゃ」
 そういって、虎船長は大きな拳固《げんこ》をかため、自分の幅広いむねを、どんとたたいた。
「じゃあ、船長……」
「まあ、聞け」と虎船長は、制して、
「だが、われわれは匹夫《ひっぷ》の勇をいましめなければならない」
「えっ、いまさら、匹夫の勇などとは……」
 若者連中は、匹夫の勇といわれて、おさまらない。
「まあ、しずかにしろ。――これが、わが平靖号の壮途《そうと》の最後に近い時ならば、それは、だれかがいったように、こっちの船体を、ノーマ号の船体にぶっつけ、ともに天空へふきあげられてけむりになってしまうのも、わるくない。だが、かんがえてもみろ。平靖号は、まだやっと祖国の領海をはなれたばかりのところじゃないか。壮途にのぼりながら、まだ一回も、壮途らしいことをやったことがないのだ。おい、そうでないというやつは、いないだろう」
 それは、そのとおりにちがいない。平靖号が航海にとびこんでからこっち、多少、風浪《ふうろう》ともみ合ったり、横合《よこあい》から入って来た危難を切りぬけるのに、ほねをおったぐらいのことで、こっちから仕かける壮途らしいことは、ただの一回もやったことがないのだ。この虎船長のことばには、だれも反対をとなえる
前へ 次へ
全14ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング