判を捺《お》しますよ」
 そういったのは、竹見の相棒《あいぼう》の水夫丸本だった。彼は、竹見から、密書のついたナイフをなげつけられ、それをうまくうけとった男だ。
 虎船長の眼が、ぎょろりと光る。
 そのとき、入口の扉をノックして、入ってきたのは一等運転士の坂谷だった。
「船長。どう決心がつかれましたか」
「ああ、わが艦隊へ無電を打つことか」
 じつは、ノーマ号が火薬船だという報告があったとき、坂谷は、この事実をすぐさま、艦隊へ報告しておくのがいいと進言したのだった。しかし虎船長は、なるべく無電を打ちたくない主義だった。なにしろ中国船のつもりであるから、あまりスパイ船のようにはきはきした行動をとりたくないこともあったし、とかく無電という奴は、四方八方ひろがるので、ぬすみ聞きされる。その結果、平靖号があやしまれて、今後の行動が、制限せられるようだとこまるとおもったのである。
「ねえ、一等運転士」
 と、虎船長は、深刻な表情をして、
「やはり、艦隊へ無電をうつことは、当分見合わせよう」
「そうですか。見合わせますか」
 もと、海軍の下士官だった坂谷は、ちょっと不満のようである。
「その代り、じゃ。わが平靖号は、これから極力、ノーマ号の後をつけていくことにしよう。そして、ノーマ号がなにをはじめるかを十分監視して、確実にあやしい事実をつきとめたら、そのときは、こっちは、平靖号を犠牲にしても、艦隊へ報告する。そういうことにしては、どうか」
 虎船長は、さすがに船長らしく、どこまでも慎重にやろうというかんがえだった。慎重にやって、いよいよその場にのぞめば、大犠牲をはらう決心もしているというわけだった。
「ああ、そんなら、結構でしょう。一つ石炭をうんとたいて、ノーマを追いかけましょう」
 坂谷も、ついに同意した。水夫丸本が、にっこりわらった。相棒の竹見と、いよいよ永のお別れかと、かなしんでいたのに、ここへ来て、きゅうに、彼ののりこんでいるノーマ号を追いかけることになった。竹見に会う機会も、必ず出来るであろうと、丸本の胸は、にわかにおどりだした。
「おい、坂谷一等運転士。今のノーマ号の針路は、どっちへ向いているのかね」
 虎船長が、質問した。
「はい、さっき南西へ針路をてんじました」
「ほう、南西へ。どこへいく気かな」
「その見当では、近くに海南島がありますが、まさか海南島へは、いかないでしょう。結局、仏領インドシナのハノイか、それとも、ずっと南に下りて、サイゴンへ入るか、そのどっちかでしょうと思います。
「ふむ、どっちにしても、相当の長い航程だ。ノーマ号を見うしなっちゃ、おしまいだから、ひとつ石炭をどんどんたいて、やつにくっついて、はなれないように船をやれ」
 虎船長は、そこではじめて、にやりと笑顔を見せた。


   謎の人物


 そのころ、南シナ海を中心とする界隈《かいわい》の各国官辺すじで、ポーニンと名のる白人のことが、しきりに問題になっていた。
 ポーニン氏は、トマトのようにかおの赤い、そして桃のような白い毛が密生した、小柄の白人であった。彼は、白系ロシア人であると自ら称していたが、だれも一ぺんでそのようなことを信じる者はなかった。
 このポーニン氏は、身体の小柄ににあわず、ひどく心臓のつよい人物で、相当の金をもっているようにいっていたが、ときには宿屋の払いにもさしつかえることなどもあって、まことに複雑怪奇な人物というべき人物だった。
 彼は、なにか仕事でもさがしているらしく、しきりに南シナ海を中心に、あっちへいったり、こっちへ来たりしていた。
 さて、この物語は、彼ポーニンが、インドシナの南方の海岸サイゴン港にやってきてからのちに始まる。
 サイゴンといえば、ちかごろは、わが欧州航路の汽船でかならずよっていくという重要な貿易港であって、米、チーク材、棉花などを輸出し、パリー風の賑《にぎや》かな町で、フランスの東洋艦隊の根拠地でもある。
 フランスの守備軍司令部に属する警備庁の、奥まった一室では、長官アンドレ大佐以下の首脳部があつまって、しきりに会議の最中である。
「おい。たしかに、ポーニンにちがいないんだね。容貌《ようぼう》や、身長なども、よくしらべてみたかね」
 と、大兵肥満のアンドレ大佐が、係の警部モロにいった。
「長官閣下、そのへんは、念入りによくしらべあげてあります。容貌や身長だけでなく、指紋までもしらべました。全く、例のポーニンにちがいありません」
「じゃあ、ただ一つちがっているのは、名前だけなんだね」
「そうです。フランス氏と名乗っていますが、もちろんこれは変名です。フランス氏などという名前は、フランスにだって、そう沢山ある名前じゃありませんからね」
「よし、わかった。では、謎の人物ポーニンに相違ないものとして、話をすすめよう」
 と、長官アンドレ大佐は、大きく肯《うなず》いて、
「そこでじゃ。ポーニンが、しきりにセメントを買いあつめているというが、それは本当か」
「本当ですとも。まだ口約束だけのことですが、私の部下のしらべてきたところによると、こんなに有ります。このとおり、全部あつめるとたいへんな量です」
 警部モロは、鞄の中から、いろいろな形の紙を重ねあわせた書類束をとりだした。
「ええと、これが五百袋。こっちの商会が、千二百袋。またこっちは、三百袋。……」
「合計して、どのくらいになるのか」
「ざっと勘定しまして、九百トンです」
「ふーン、九百トンのセメントか。相当の分量だ。そんなセメントを買いこんで、どうする気かな」
「当人は、今にセメントが値上《ねあが》りするから、買《か》いしめておくのだ、といっているそうです」
「すると、値上がりのところで、売ってもうけるつもりなんだな。すると、単に、目さきの敏《さと》い商人でしかないではないか」
 長官アンドレ大佐は、そういって、卓子《テーブル》にあつまっている首脳部の人たちのかおを、ずーと見まわした。
「それは、どうもおかしいですな」
「ポーニンが、金|儲《もう》けだけに、うき身をやつしているとは思われませんねえ。イギリス大使からの内報をよんでも、単に、それだけの人物とはおもえない」
 席上では、誰も、ポーニンが、今目さきの敏い商売だけをやっているものとは信じない。
「おい、モロ警部。報告材料は、もうこれで、おしまいなのか。想《おも》いの外、すくないじゃないか」
 長官は、モロの方に不満そうなかおをむけた。
「ああ長官閣下。じつは、もう一人、報告をしてくるはずの者がいるのですが、とうとうこの時間に間にあいませんでした。すみませんです」
「もう一人というと、誰のことだ」
「は、それは……」
 といっているところへ、卓上の電話が、じりじりとなりだした。
 警部モロは、発条《バネ》じかけの人形のように、その受話器にとびついた。
「――なんだ、なんだ。ポーニンが、しきりに船をさがしているって、汽船を買いたいといっているのか。うむ、そいつは、すばらしいニュースだ」
 警部モロは、電話で相手とはなしながら、長官アンドレ大佐に、仰々《ぎょうぎょう》しい目配せをした。


   セメント問答


 怪人物ポーニン氏の行動は、もはやそのままに見のがす事はできなかった。
 警備庁長官アンドレ大佐は、うでききのモロ警部に命じて、自称フランス氏のポーニン氏と会見させることとなった。そのうえで、ポーニン氏が、なぜ九百トンもの多量のセメントを買いこんだのか、一応その事情について説明をもとめること。それと同時に、もし出来るならば、ポーニン氏は本当は何処の国籍を有する人物で、東洋へ来て、何を目標に活動をするつもりなのか、そこらのところも探偵すること。この二つのことについて警部モロは、命令をうけたのだった。なかなか容易ならぬ仕事だった。
 警部モロは、この命令をうけるや、この町に出張所を持つ極東セメント商会出張所の外交員に、はやがわりをしてしまった。この商会のセメントは、値段が高いため、前になぞのポーニン氏から一度はなしはあったが、取引はなく、そのままになっていたのである。警部モロは、またそのうち、きっとなぞのポーニン氏から口をかけてくるだろうからそのときは長官アンドレ大佐からめいぜられた任務を遂行しようと、網をはって、まっていたのである。
 もちろん、警部モロの身分については極東セメント商会の出張所長と、秘書課員だけが知っていて、他の社員には、それを知らせてなかった。それは、あくまで事を秘密にはこぶためだった。
 二三日経って、この商会へ、自称フランス氏から電話がかかってきた。それによると、セメントを購入《こうにゅう》したいが、この前申出のあった値段は高すぎるからすこしかんがえなおしてくれないか、返事を至急ほしいということだった。
 商会では、この返事をするため、警部モロがポーニン氏のところへ派遣されることとなった。すべてはかねて仕くんでおいた芝居の筋書どおりであった。
 警部モロは、ポーニン氏を、そのホテルへ訪ねていった。
 ポーニン氏は、今起きたばかりのところだといって、はれぼったい瞼《まぶた》を、こすりながら、応接室へ出てきた。
 一通りの挨拶があって、値段のはなしになったが、今度はポーニン氏の腰は、すこぶる妥協的であって、ほとんど極東セメント商会の言い値でもって、話《はなし》がまとまった。
 そのときモロはいった。
「ああもし、フランス様」
 と、ポーニンの偽名のとおりに呼び、
「じつは、手前の店の倉庫に、すこぶる格安のセメントが、相当多量にございますのですが、お買いもとめくださいませんでしょうか」
 ポーニン氏は、ぴくりと眉《まゆ》をうごかし、
「格安のセメントというと」
「さようですな、お値段のところは、まあ殆んど半額みたいなものでございます。まったく、ばかばかしい値段で……」
「それは、どうした品物かね。つまり品質のところは、どうだね」
「いや、その品質という奴が、すこし他のものとはかわって居りましてナ、そこのところが値段をお安くねがっているところでございますが、つかいみちによっては、りっぱに使えますので……」
 モロは、わざと、相手の求めているのを、知らんふりをして、自分に都合のいい方へ引張りこんでいく。なかなか達者なものだった。しかしポーニン氏も、二くせも三くせもある人物である。うまく警部の手にのるかどうか。
「値段のところは、まあどっちになってもいいんだが、普通品に比べてその品物の欠点というと、どんなことかね」
「実は二三の欠点がございます。まあしかし、そのうち主な欠点というのは、太陽の光線に会いますと、表面が白くなってまいります。つまり一種の風化作用が促進されるというわけですナ」
「ああ、太陽光線による風化作用か。そんなことはどうでもいいが、その他の欠点というのは……」
 モロは、腹の中で、にやりと笑った。
(うふ、ポーニン奴。太陽光線のことはどうでもいいといったが、するとポーニンのやつは、例のセメントを、太陽の光が届かないところで使うことを白状したようなもんだ。ふふふふ)
 だが、モロは、それを顔付《かおつき》には一向出さず、
「あとの欠点は、それほど目立ったものではありませんが――まあもう一つは、つまりソノ、潮風とか塩気に当りますと、くろい汚点が出てまいりますんで」
 といって、モロは、ポーニン氏の顔色を、じっとうかがった。


   恐ろしき予感


「黒くなるというのは、品質がかわるという意味なのかね」
 とたずねるポーニンの言葉つきには、真剣な色がうかんでいるようであった。
 モロは、腹の中で、ふふふと、微笑をきんじ得なかった。
(ははあ、ポーニンの奴は、買いこんだセメントを、海洋方面で使うんだな。とうとう大事なことを白状してしまったようなものだ。俺も、なかなか大したうでをもっているわい)
 だが、それはむねから下に、おさえておいて、
「いや、黒く色がつくだけのことで、べつに品質がかわるという意味ではございませんので……」
「もう他に、どんな欠点がある
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